壁とはなんだったのか

 

 

 

夢の中で遊んでいた。

 

氷が張ってある湖の上を歩く。これ大丈夫かと思いながら通り過ぎると音を立てて崩壊していた。その後は水の中で仰向けに潜って光がゆらゆらするのを眺めているシーン。体を動かすことなく空に出たり潜ったり、体に纏われる感覚(重力)と、視界の変化を楽しむ。

 

飛び上がったら唐突に現実になり、バスに乗っていた知人的なモノがあれって〇じゃね。と気付く。やべ、遊んでいるのがバレたとなり逃げるのだが、追いかけてくる。現実といっても夢だから、相手の身体能力も半端ではない。そうして、僕はもっとリミッターを外し、北海道にワープして、ある民家で目を覚ましたのだった。顔にタオルが被っていて(これは実際の現実でも簡易アイマスク的にやっていた)、夢の中で外すと、顔を見るなって言っていたけど、見て良いの。と聞かれる。

 

夢の中の風景も随分変わってきたような。そもそも夢の中には重力ないし。

 

目が覚めたときって体と意識が馴染んでないよな。今読んでいる本だと、寝ているときは潜在意識が活発になっているらしい。たしかに、顕在意識のお守りをしなくても良いというのは遊びの時間なのかもしれない。

 

さておき。

 

昨日は田んぼにオタマジャクシを見かけたのだが、今日は見えなかった。通り過ぎ際にちらっと見ただけだからだと思う。小学生時、オタマジャクシがカエルになるの観測するということで教室に水槽があったのではなかったっけ。

 

という感じで、別に昨日と今日で何か現実とされるものが変わった訳ではないのだが、なんというか感じが違う。何か壁を越えてしまったのかもしれない。存在を許していないという自分の中の怨念みたいなものもどうでも良くなった。パラレルワールドの世界だという解釈によるのかなんなのか、もう大丈夫だという感じ。よくぞここまで生き残った、ありがたい。

 

もちろん、別に常識というか社会というか現実というかみたいな感覚から離れて遅刻とか他人をないがしろにして良いみたいな感覚もない。

 

ふわふわしているところと、現実的なところの調整が利いてきたのかな。

ただ、現実的な一般論はほとんど嘘だという解釈で良い。これをしたらこうなるに違いないみたいな方程式的感覚。

 

ちょっと地に足を付けて。

 

僕は知っての通り、毎日ひたすら本を読んでいる。ふと小説を見ると、「アンナカレーニナ」、「失われた未来を求めて」、「ニューロマンサー」、「私を離さないで」、と外国の本ばかりになった。カズオさんの本、直近(もう3年くらいまで離れたが)の元恋人さんの友人の〇子さんが面白いと言っていたのだが、たしかに面白い。不気味さが約束のネバーランドみたいな感じ。

 

で、知識とされる項目に入る枠の話も、ただの他の世界観でしかないのではなっている。

今日雑談で流れてきた音声で、プログラムを組むようにはなれないとか言っていたのだが、結局は自分の世界観を限定している。やろうとしたらどれだけ時間がかかるか分からないみたいなことも言っていたが、ここにあるのはどんな時間なのだろう。

 

たぶん、人は自然に自分が生きている世界観に近いところに収まるから、他の世界観に生きている人はどうでも良いというか、建前ではヒトでも本音ではヒトデナイなのだろうな。どんなプログラムだろうがシステムだろうが、自分と同じ種の脳を持った人が構築したものでしかないということ。

 

この話、ずっと想っていたのだが、もう書いたのだっけ。

 

数学世界と、小説の中で構築される世界の近似性。

 

どちらも誰かの頭の中にか存在しない世界なのだが、数学世界はかなり厳密に要素が規定されている。要素が存在しないと成りたたない世界だから。交換法則、分配法則、数字を0で割ってはいけないとか諸々。

 

小説世界は現実と地続きだから現実的感覚で読んでも良いのだが、ちゃんと創られている世界にはそこだけで成り立つルールがある。小説の醍醐味はこういう素朴な自分とは離れた世界があるということで、なんなら人間関係も同じことだと思う。人のナカの世界って面白いでしょう。

 

と、自己開示をする人に人は興味をそそられてしまうという説明力アップの本が言っていたことを想い出した。これだけぶっちゃける人はなかなか居ないだろうから、読み離れはできないのかもしれない。

 

もっと現実的なシステムに焦点を当てて。

 

法律とか経済とかの世界観って、自分の損に見合うとか釣り合うことを求めるのが人だとなっている。僕はこれは正解ではないとは思って居るし、システムに順応してしまったからこうなったと解釈している。

 

つり合いに納得したのが、最近改めて読んだ、契約の目的物において不適合がある時の売主の責任の話。一昔前までは瑕疵担保責任と呼ばれていた。

 

1から書くと、売買契約としてイメージされる既製品というよりは、メルカリみたいな1点ものに近いのだが、1点物の場合、不具合が生じようが生じまいが、それしかないのだから、それを渡すことで売主の義務は完結する。いや、法律上完結したとしても不具合がある商品を買った売主は対価に見合わない商品を買わされている訳で、調整が必要だろうという話。

 

こういうややこしさをすっきりさせたのが債権法改正で、そもそももともと売主は契約で決まった内容の商品を渡す義務があるのだから、買主が払った対価に釣り合うようにする義務があるよねということ。

 

これって説明の違いでしかないように思うのだが、法律の世界はどう説明できるのかが大事。でもこれくらい言語を尽くさないと他人と他人は繋がれないのかもしれない。

 

素朴な僕は、この公平性という正しさが怪しいと感じている。何かをするときに、返ってくる必要あるか。無償は奉仕だって語用だが、いやいや、したかったら対価関係ないだろうよと。釣り合うという意味では刑法も怪しくて、犯罪とすることでそれが無くなるなんてことはない。刑罰の重みと、自分がしたいことを天秤にかけて合理的に人が物事を判断するなんて嘘くさないか。それほど理性的な人なんてほとんど居ないし、もっと柔らかい対応の方が良いのでは。

 

社会のシステムと素朴なものさしは確かに連動していると思うし、これはこれで良い。それぞれ領分の思想がある。

 

だから、歴史上の思想家はその時の社会をどうにかよくしようと考えて新たな世界観を構築していた。この思想が現代にも繋がっているということを全く知らずにみんな使っているんだよな。

 

存在とは、ものとは、自分とはとか、きっと本当に突き詰めたことはない。

顕在意識と潜在意識とか意識したことあるか。

 

「思考する身体」で文体とは動きだというフレーズがあって、そうそう、文章にはさわれるのだよなと思う。実際に触れる他人の方が現実的には近いのだろうが、僕は実際に触れ

た恋人さん達の感触をほとんど覚えていない。こんなのが現実で良いのか。

 

現実感とはなんぞやというと、証拠が増えることでしかない。自分の中で言えば五感の複数がそれを認識することだし、社会的には自分と誰かの共通項が増えること。

 

何かの食指が働いて、宇宙人とか未来人の話を読んだ。

 

タイムマシンとかレプリカントとか霊能者とか過去世とか来世とか絶対ないとは思わないけど、だとしたらだいぶ狭いよなと考える。

 

時間って、もともと存在している現実ではなくて、あくまでメートルとかグラムとかの発明品でしかない。物事の移ろいというか循環を単位化したのが時間という言葉。一日は24時間だが、1時間を24倍にすれば1日は1時間になる。単位を合わせているだけ。

 

個人の中の時間は伸びたり縮んだりする。

 

ということは、未来人とか宇宙人という言葉は、何か証明されていない存在というかえねるるぎーからのアンテナが捉えた翻訳でしかないような。

 

未来人は精神性が高いっていう話も書かれていたが、精神性の高さってそもそもなんなのということは書かれてなかった。次元という言葉は、なんだか高尚だがただの変数でしかない。縦横奥行きが三次元だが、普通に人の意識はもっと変数がある。

 

別にこういう世界線で生きている人も居て良いし、より生きやすく解釈していくのが人生だし。

 

こういう世界があるかどうか分からないと同じ次元で、他人が現実としていることも本当にあるか分からない。文章があろうが、証拠写真があろうが。

 

でも、僕は人と接したとき、客観的なその人より僕と接したその人の方が面白いという世界観がある。もっと遊べる領域。

 

なんだかヨクワカラナイ話になったが、僕はもともとこういう世界に生きていた。

一般論の侵食に耐えうるバリアはできてそうだが、もともとからそんなに変わっていない。

 

 

では、無理していませんように。

 

 

おやすみなさい。