いろいろ

 

 

昨日対話したおかげかなのか分からないが、ふつーに元気だった。ややこしい案件が多いし、相変わらずメモリは大幅に取られていて頭の中で別の事を考えることもできなかったが。好きな人の像を想い浮かべたら何かが沸いてきてエネルギー!と思ったのは秘密。

 

僕はポジティブ信者ではないから、人の精神に波があるのは自然なことだと捉えている。意味なく沈むみたいな感じは全然あって良い。ただ、その要因を外界の何かとするのは良くないと思う。自分の自然なリズムではなくなるから。何もなくても微妙に上下しているのが自然状態。

 

自己対話って結局自分でするしかないんだろうな。カウンセラーとか向き合うきっかけになる出会いとかがあったとしても、それはトリガーでしかなく、その後は自分の力で行わないといけない。こういうガイドを守護霊とか過去世にするのもありなのだろう。

 

もしかしたらこういった肉体的感情とは別にスケールが滅茶苦茶壮大なテーマについて思考実験していたからかもしれない。

 

幸福を考えるのであれば、諸悪の根源から考えた方が良い。最上級の悪魔になったら何をするか考えて見るというのは、幸せの教科書にあった、自分が幸せと言えるには自分が不幸な状態から逆算するというのと似ている。ただ、僕は自分が不幸な状態というのをあまり想定できなかった。書物を読めず、文章が書けない状態は嫌だと思うが、これは不幸なのか。不幸って、最低限、緊急の命に対する危機が無いと起こらない感じだよな。おそらくアフリカの常に飢餓状態にある子供達は、自分が不幸だって評価する前に、「何か食べたい」だろうし。不幸自体がぜいたく品という感じ。

 

まぁ良い。以下、最上級の悪魔の寓話。

 

 

宇宙空間のある1点、ある瞬間にその悪魔は生まれた。彼、彼女でも良いが便宜的に彼と呼ぼう、は自らの出自は知らない。ただ、存在が最上級であることと、人をせん滅させることを使命としていることは分かっている。戯れに視界に入った星を1つ2つ消してみる。それくらいの力はあるらしい。太陽を消すことができれば人類はおろか地球全体を滅ぼすことができることも分かっているが、そこまでの力はない。そこで彼は頭をひねり、もっとも早く省エネで人をせん滅させる方法を考え出した。これであれば天変地異を起こしたり、バイオハザードも起こしたり必要はない。

 

次の日、それがなくなったことにより人は人ではなくなった。この結果に満足する前に彼も消滅することになるのだが、それは彼が望んだことでもあったのである。

 

さて、それとは何か。

これが僕の中にある諸悪の根源。

 

 

 

 

ちょうど原始仏典の解説書を読んでいるのだが、悪魔がやたらと出てくる。愛執と不快と憎悪だっけ。これが悪魔の娘たちで、ブッダには取り入る隙がないとか言って退散する。そういえば、七つの大罪としての悪魔にも名前が付いている。そうして、創世記の「光あれ」。光が存在したことによって、必然的に光ではない存在である闇とか影が生まれる。

 

ここまで書いてあえて答えを書く必要があるのかは気になるところ。このまま進めるか。

 

 

国家レベルでの手っ取り早い統治法って、それまで書かれた書物を一掃して、今が正しいとすること。社会でもあまり変わらない。情報を統制して、為政者にとって都合の良い情報が目から耳から入るようにする。無意識を洗脳すれば、人は自分が正しいことをしていると自覚しながら為政者にとって都合が良い行いをしてくれるようになる。

 

ちょっと現実に戻り。ニュース速報で夫婦別姓の訴えに対して最高裁判所が突っぱねたというものがあった。僕は婚姻届出したことがないのだが、どちらの姓にするかの両方にチェック付けたのこと。なんだかやり方がやらしいなと思ったが、読んでも最高裁が何を言ったのかの情報が全然なく、裁判所って頭固いよなという印象を伝播させている。この話題が盛り上がらないのは、当事者として同情する層があまりいないからなのだろうな。ある夫婦が外からどういう名前で呼ばれたいかなんて、知ったことではないというか、だったら夫婦というカテゴリー選ぶ必要はないよねと。

 

でも夫婦制度のパッケージの優遇は享受したいということなのだろう。僕はあまり税法やってないからあんまり知らないのだが、配偶者控除とかだろうなという想像。戸籍はたぶん切り替えは問題ないとしても租税関係がややしくなりそうな気はする。

 

僕は自分に付けられた名前は大好きだから気持ちは分からなくもないが、そこと外からの呼称が一致しなくてはならないという感覚はあまり実感として共感できないところはある。体としての自分と連動しているのかしら。

 

身体改造が自分の体を自分のものと認識する呪術的作用があったのと同じように、自分に匿名的名前を付ける行為もある意味改造なのかもかしれない。

 

でも、人から自分が認識されることの最重心が、記号としての名前って、まぁまぁ寂しい、というか虚ろな感じ。

 

悪魔という思考実験を介してみて、煩悩はあるが憎悪みたいなものはさっぱり抜け落ちてしまったなと思う。僕はある時期まで姉を憎んでいたし、僕を自分の存在を固持するために使う人も憎んでいたし、ひいては、社会のそういう人たちへの憎悪。

 

今そういう人が居れば、それって違いますよね言っても良いよなって遊びがあるからなんとも思わない。そうこうしているうちそういう人が居なくなってしまった。

 

悪魔とはあくまで言葉であるということ。

 

ややこしいのは人が人であるためには言葉が必須だから、人であるということの中に悪が含まれているのだよな。人は言葉だけで他人を地獄に落とせるし、天国にも上げられる。

 

僕が個人レベルの悪魔だったら、そうやって言葉だけで人の人生を左右して、けけけ(悪魔笑い)とやるんだろうが、これって、やろうとすれば生身でもできなくはない気もしていて。

 

言葉として存在している時点で悪魔的というか。

 

と、考えていくと、今の現実において書物が読めない人が多い、読んだとしても自分にしか引き直せないというのは、人が人でなくなった方が良い勢力が存在しているというのはちょっと分かる。自分の価値観に合うものだけしか読めないのは、まぁまぁやばい傾向。

 

書物の本質は、書いた人がどうなのかという想像というか、よく分からない存在に対する需要であって、他人の言葉を自分のモノサシで切り分けることではない。

 

LINEが導入される数年前の過渡期の遠距離恋愛のとき、僕は文通、いや一方的に恋人さんにお手紙を送るということをしていた。手紙っぽくはないという評価だったが、まぁ楽しく読んでくれていたとは思う。知らんけど。

 

僕にとって言葉はそもそも双方向のものではないということなのかもしれない。

ブログとか手紙という概念がなかったら、非言語のカオスの中で言語化されることはなかった。

 

そういえば、次の本は「AIは人を憎まない」だったのだが、本屋に行ったらさらに順番待ちが増えた。「難しい天皇制」。好きな社会学者さんと憲法学者さんとの対談本。個人的に国家神道ってどういう宗教なのだろうって気になっているから、結局なんなのだという疑問に対する回答がありそう。さらに、スピリチュアルを学問的に捉える本。自己とは何かを学問するって面白いでしかない。

 

面白く生きていると、面白い存在との縁が起こるのだよな。

これは経験則。僕は面白さと愛着を連動させていない。

 

とりあえず、おしまい。

 

よい夢なのか現実なのか分からないが、とにかく良い何かを。

 

おやすみなさい。