ありあまる富

 

 

人に助けられたときは感謝を忘れないようにしてラッキーだと捉えれば良いし、人を助けたときには感謝を求めるのではなく貴方はラッキーでしたね、というくらいでよいのかもしれない。感謝とか笑顔があるのであればいただくが、それ自体もラッキーでしかない。

 

自分がラッキーであるとするのは問題ないが、これを人の価値にフィードバックするとニュートラルで居られなくなりそうだなと、本日たまたま人に助けられてときに考えた。

 

毎回書いているような気がするが、ほんと毎日がおかしいくらいに楽しい。変化を好む質だが、万物に変化が無いものは存在せず人にかぎって言っても常にどこかの細胞が死んで生まれ変わっているのだから、そりゃあ常々楽しいに違いない。

 

変化を嫌う質が平衡を求める細胞の性質に由来しているのであれば文化とか社会規範よりも根深いが、対自分だと変化していないと思い込んでいるうちに閾値を越えてしまい、いつの間にか変わってしまっていたとなるのかも。僕にはそんなことはないが。

 

僕の言語化は、頭の中で練ってきた言葉を満を持して現実に投げるようなものではなく、その「いま」の感じをぽいぽいしているだけ。感じと言葉はある意味別物なのだが、この感じがそう言語化されるのかと演者と観劇者の両方が楽しめる。一度で二度美味しい。

 

これは僕の料理観とも近いのか。本日の副菜は結構気合がはいった豆苗と人参のマリネを作った。昆布茶テイスト。あとは卵をレンチンするだけというところで、切れていたことが抜けていたことに気付き、急遽ピーマンのレンチン鰹節、すりごま和えを作成。白だしが美味しい。ある時間枠の中でどこまで作れるかと、それが美味しいのかを二度楽しむ。

 

こんなの変人の所業だと思うが、楽しむの本質は楽であることではなく、変化と試行による向上なはず。ついでに、きちんと楽しめば世界にフィードバックされてくる。料理で言えば、どれだけ気持ちがこめられているかが、形とか味で読めてくるとか。

 

文章で言うと、「クララとお日様」を読んでいて、この文体どうしてすらすら読めるのだろうと思ったら、漢字が続かないように意図的にひらがなにしている部分があるからだった。これは宵顔さんの語用に倣って僕も日記を書くときに気にしていること。これを認識した瞬間ぶわっと鳥肌が立った。

 

この認識を自分の日記を読みかえすときに持ってくると、ここの媒体で読みやすいように意識が通っている。短文にしたり、体言止めにしたり。体言止めの多用はもともとの文体なのだが、そもそも僕の文章体の始まりはもっと日記に特化していないSNSだったからなのか、素朴な発話がそれだからなのかは微妙なところ。

 

まず文章として読みやすいかというのは人に読まれる最低限だとは思う。僕のは人が一息で読める文字数の上限を越えがちな気はしないでもないが、別にそこが目的でもないから良い。

 

これで言ったら夏目さんの文章は悪文の語用なのだが、それでも美文になるのは文体の術なのだろうな。静かな味わい。注意して読むと、全部の語尾が「た」だった。これを普通の人がやろうとすると、絵日記のようになるはずなのに注意しないと気にならない。こういうのが文芸と言える文章なのだろうな。

 

こういうのを気にして書くには日記の枠は狭いと思う次第。何処で書いても一定の文体があれば良いが僕の文章体はそこまで強固ではなさげ。緩さと軽さこそが僕の文体であるという感じもある。

 

 

ちょっと椎名さんの「幸福論」の話に戻って。昨日のタイトルも同名にしたが、幸福とはなんぞやって書いてなかった気がする。僕の中では何ものにも依拠しなくても自分で在れることがほんとの幸福なのではとなっているが、これは幸福というより幸運なのかもしれないという異説もある。

 

そもそも幸福って、その時代で決められた人生の理想形みたいなところがあり本当に素朴なその人の話ではない感じがあって、使いどころがワカラナイ言葉なのだよな。ほんとうに当人の理想形であれば良いが、そうなったら幸福という言葉を当てる必要がなくなる。

 

それとは別に、長く過ごした恋人さんはカラオケで歌うとき、当人の意味を歌に載せる傾向にあった。僕の当時では追いつけなかった知見。ここで、「幸福論」とか、安藤裕子さんの「のうぜんかつら」が耳に残っているということは、彼女にとって僕と居ることがハッピーだと捉えられる時期があったのかもと。僕がもっと僕になれていればもっとその非言語に気付けたのだろうが、僕の人生はだいたい気付くのが遅いので仕方ない。

 

ただ、幸福感が一瞬でもあったのであれば嬉しいことだなと想えるようになった。

 

 

僕はもう一生、誰かのこととか何かのことを掌握しているとできないという認識。

世界は常に自分というフィルターがかかっていて、これを完全に外すことは自分でなくなることだから。

 

何にも依拠しなくても良い自分で在ることってなんだか仏教寄りな感じがするため、原始仏教の読みかえしはやめて、ずっと前に買って読んでいなかったキルケゴール氏の「絶望に至る病」に移行した。キリスト教の枠内の中での話っぽい。死自体は死に至ることはなく、絶望という病が人の魂を退場させるみたいな話なのかなと予想。

 

ちなみに僕は世界に絶望は全くない。この枠なら希望しかないで良いくらい。

自分の処方箋として本を読むということもやめている。良い感じに機会が巡ってくるだけ。

 

「思考のすごい力」なのだが、ほんと凄い。

 

信念を生物学用語に翻訳すると、「中枢神経系からのアドレナリンからの指令」という言葉になり、これは個々の細胞の環境に対する反応に優先するとのこと。ほんとのポジティブは病気を治す。ただこれは自分に言葉で言い聞かすことではなく、中身を信じるかどうか。

 

うさんくせぇとなるのは当たり前。陰謀論ではないけど、人が制限かかっていた方が都合が良い勢力があるから。オカルトではなく、製薬業界のやり方が書かれている。

 

プラシーボ効果は、心理学をちょっと読めば出てくる言葉だが、製薬業界では統計取るときにこの効果が高い人は排除する運用をしているらしい。なにやら抗うつ剤の80パーセントはこの偽薬効果というフレーズがあり薬とは、となる。先輩男子は良きお医者さんに当たることができれば良いが。ここも祈っておくか。

 

制約業界怖いというのは、かつての友人がMRだっけしている話を聞いてなんとなく知っていた。信念の話で言えば、薬を飲んでやってくる環境効果は、脳からく指令によって覆るということ。僕は鎮痛剤も常備していないし葛根湯くらいしか飲まないのだが、安心の為に常備薬を飲んでいる人も多そう。眠眠打破とかカフェインとかも、結局それが利くと自分が信じているかどうか。これが本当だったら、世の中の医療システムはひっくり返ってしまう。

 

カフェインに覚醒作用があると思ったことはない。コーヒーは美味しいから飲んでいるだけ。

 

こういう情報を収集すればするほど、世界についての問題は、自分がどうであるかに還元されるという自由度が増す。

 

人のことも僕は経験則で判断してないことを認めれば良いし、なんだか接していて気持ちが良い人はいる。これは効果とか結果は問題としていない。

 

MRのかつての友人も僕にだけに自分の中身を呈示してくれた。強気で世界と向き合っている人だから、弱みは提示できないだろうに。

 

誰か特定の個人を知るということができないというのは、無意識が95%を占めているのだから当たり前。見えている相手もフィルターがかかっているし、見せようとする自分のことも把握できていない。この曖昧な関わりで、完全に相手が分かっていると思うのは思い込みでしかない。

 

もしかしたらこんなの社会の共通認識で、言わないのが華ということなのかもしれないが、仕事ならともかく素朴な関係でこれをするのもされるのも嫌。

 

「クララとお日様」に戻ってきて、ほんとに嫌だと思うのが、表では良いこと言っているのにその人がその場に居なくなったら蔑ろにできること。ほんとが良い顔できないのだったらやめれば良いと思う。

 

この話根深そうなので強制終了。

 

おやすみなさい。

 

良い信念を。