自発でも触発でも、発現という意味では変わらないとすれば、どちらかに重きを置かなくても良いのかもしれない。

 

 

日記を書いた後、この解釈最高だなという私信を送ったら至福の発想が降りてきたが、その想念のまま寝たからに違いない、変な夢を見た。

 

先に書かないと僕の趣味が誤解されるが、フロイト夢分析における象徴の話で、ストレートに表現できないものが夢の中では別物として現われることがあるとのこと。実際には存在しない弟とべたべたする夢をみた。分かりやすくすれば妹なのだが、妹は実在するためこれで現われるとだいぶ脱線する。そのことを家族に認められるためにあくせくするややファンタジックな物語が続くのだが、省略。

 

解釈するに、「違法ではないが背徳ではある行為」に対する無意識からの警鐘みたいなところ。そんなこと想起するのはあかんぜよ、みたいな。まぁ僕は違法でない限り背徳は全然ありで、今後同性が好きになる可能性も排除はしていない星人だから問題は、これに人を巻き込むなよというところなのだろう。でも、意識の階層では、冒頭文に戻ってくる。

 

 

さておき。

 

予言通り、本日のお弁当のおかずを貼ってみたが、何か寄り弁ちっくになっておりあんまり美味しそうには見えなかった(自己観測)。いや、味は良いんです。本日は生姜焼きと、ブロッコリーの茎まで使ったゆかりとすりごま和え。明日はもう少し美味しそうに撮れればいいが。

 

そういえば、料理を振る舞って遊んでいた時代、年上の独身男性が休みの日でも僕のお弁当画像を何故か楽しみにするという現象があった。文章も書いていたが、文章は見せていない。自家製料理に飢えていたのだろうか。この人の弁当は昨晩のご飯のスーパーの総菜の一部を詰めただけ。しかし、こういう人は今の僕の世界に顕われないだろうな。生活様式ではなく精神様式の面で。

 

 

本日はkindle読み放題で2冊読んだ。1冊は長めの日記みたいなもので一瞬で通してしまったが、もう1冊は、帰って読んでいたら声に出して笑ってしまった。

 

本の話の前に、kindle読み放題のトップページには、連続読書日数を増やしましょうという表示がある。この1週間くらいこのアプリでは読んでなかったためカウント0だったのだが、ふと考えると、ここ5年くらいのうち、本を全く読まなかった日ってどれくらいなのだろうなというくらい日々読んでいる。飲み会の日とかでも日中読んでいた気がするし、直近の恋人さんの家で泊まった時も、家にある本読ませてもらっていたし。何か特別なことではなく、単なる生活。ついでに、日記的文章も今残っているだけで700くらいはある。消えたアカウントでやっていのも含めたら、1500くらい(もっとかも)はあるのではという感。分量は最近ほど多くないが、だいたい同じようなことを書いていた。

 

と考えると一般論的に読書とか文章を語るべきではないよなと思った。

そりゃあシンクロニシティも選び放題だわ。

 

読んだ本。「運気を磨く」というやつ。

使えるものはなんでも使うかという感じで選んだ。自分では運はかなり良いと思っていてあんまり行使するのも申し訳ないなという意味不明な観念があったが、そろそろ解放していくかと。

 

読んでみたところ、なんというか、もうだいたいやっていた。笑

 

運気が良いってなんぞやというと、直感とか予感が稼働するとか、シンクロニシティも含まれるとのこと。なんとなく導かれるみたいな感じ。

 

で、そのためには、無意識にこびり付いたネガティブな想念を取り除いていくということで、無意識で自己懲罰意識とか、自己否定があるとそういう風になるとか。これ、2カ月前くらいの日記で書いていた、どうでも良くなったやつである。知らぬ間に向き合った上で乗り越えていた。

 

わらけてしまったのは、ネガティブな想念の払拭法が3つあって、その1つ目が、「自然の大いなる浄化を利用する」で、自然に浸る・自然と正対するだったところ。ここのところ毎週、なんなら毎日やっているやつ!笑

 

自然に浸ることと、瞑想が近いところにあるというか、瞑想は自分の本質に正対する州法なのだが、それは瞑想ではなく自然に浸ることにより起こるものだという話も、実感として理解できた。たしかに自然に浸ったとき時間の流れが無くなる瞬間がある。理の深いところと逢っている。僕の場合は対価として筋肉痛が起こるが。

 

残りの2つも割と実践しているものだった。1つは無意識の言葉を改めるみたいなところ。言葉(思考)より感じを大事にするとか、心と言葉を一致させる訓練をするとか。お弁当の下りで出てきた独身男性だが、割と人当たりがよい言葉遣いなのに心と言葉が全然一致していない。これ当時の日記にも書いていた気がする。心と言葉の一致に訓練が必要なのは、世界のほとんどがノンバーバル(非言語)の情報だから、人は人の言葉だけを見て誰かを判断していないが、言葉の力はそれだけで独立してしまうところもある。だから虚飾ができるし虚構が現実にもなりうる。

 

もう1つは、和解だったかな。嫌いな人に心の中で感謝の言葉を唱えてみようみたいなこと。僕はここはやってないな。嫌いな人そんなに居ないので。

 

その先は、自分が大いなるものに導かれていることを覚悟するとか、生きているだけで幸福だとか、要は人生の解釈の方法。自分を良く解釈するって結構な覚悟と楽観性と感謝の想念が必要。この本の良いところはこういう観念を神様とか超自然的な媒介を必要とせず、最新の科学の知見から持ってきている点。信心深さは不要だが、量子力学の世界観への理解は必要かもしれない。

 

ほんと面白かった。ありがとうございます。

そろそろ関係でも時空を越えられるかもしれない。物質は現実に実在する訳ではなく波動であるし、時間もいっしょくたになっているのが最新の科学の知見らしいし。アカシックレコードに科学で届いてきたのか。量子力学では、ゼロポイントフィールドというらしい。

 

と考えていくと、そろそろ一回ちゃんとした占い師に占ってもらいたいみたいなところはあるな。未来は可能性であって確定しておらず、観測されることで1つに定まるシュレーディンガーの猫みたいなもの。

 

言葉を大事にするとか論理を大事にするというのが、ネガティブな想念を含むのは、言葉には常に逆があるからというのがあった。ポジティブな言葉を唱えようという罠は、意識的な言葉は無意識に浸透しにくいというところとは別に、光は無意識に影を落とすという感じ。

 

これだけ書いていて説得力はないかもしれないが、僕は言葉ではそんなに考えていなくて、何かを言葉にするとき、反対の言葉については考えなくなっている。子供は無邪気だから言葉にしてもネガティブな想念は生まれないとのことだったが、たしかに、僕の言葉には邪気はなくなってきている感じがする。(しない?)

 

あと、「祈り」についての話もあった。祈りが届かないのは無意識領域に訴えかけない表層の「願い」をするかであって、正しい祈りは「導きたまえ」だとか。僕の祈りは自分に向いていないからあんまり関係ないなと思う。お参りするときも具体的な願いはしなくて、「見といてください」みたいなことしか唱えない。大いなる導きについては、要はなるようになるということで別に祈る必要もない。この先どうなるのだろうというワクワク感しかない。

 

やれやれ。

 

「私をはなさないで」の次は、カズオさん繋がりで最新のハードカバーのAIの話にしようと意識していたのだが、色々割り込んで来て、結局、「時の他に敵なし」になった。翻訳本ブームだ。時間移動して石器時代の女性と恋に落ちるというはしがきだったが、それよりも装丁の真っ黒感に惹かれてしまった。最初の方を読んだが、今のところまだ世界観に入りこめていないから良く読めない。

 

運気の話で、自分が接している事象が自分にとってどういった意味があるのかと考える(解釈する)ことが大事だとあったが、これって自分を生きる上である意味当たり前のことではなかろうか。いや、僕も最近まで人生は流していくものだという邪気にまみれていたから鮮明ではなかったのだけど。

 

こういう意味で演劇との出逢いが発見になった。芸術学曰く、芸術は事実であり事実であるとされるためには時間が流れていることが条件みたいな。絵画を事実として体験するためにはそこに流れる時間を感得できてこそ。

 

もっと色々体験しに行かないといけない。

 

僕の文章はきちんと時間が流れている、とは言えないな。時間は戻ったり進んだりしているし、空間もあべこべ。でも素朴な精神世界がこれなんだよな。しょうがない。

 

ほんと、人生楽しすぎるから僕は僕で生まれて運が良かった。

(僕の文章読めている人も運が良い人なのではとこっそり思う、なにせ気まぐれ野郎なので)

 

リベラルアーツもそろそろ終わる。最後がダーウィン種の起源で、人間が繁栄したのはたまたまだって、人間至上主義をぶっ壊したところなのだろうが、僕は人間中心主義に回帰しても良いのではとは思わなくもない。世界の捉え方も人間が創ったものだし。

 

ここまで。

 

では、導かれますように。

 

おやすみなさい。