割烹処

 

 

 

罪悪感について考察していたら自分の中の森で迷子になった1日。

 

朝はうどんと納豆ご飯。うどんはキャベツとブナピーとブロッコリースプラウト。残り食材なんでも入れられるから良いな。昼はスーパーのお弁当で、夜はもやしナムルと目玉焼きとミニトマトと。メインは鶏肩肉と玉ねぎと実家から届いたしし唐みたいな形のピーマン(らしい)のウスターソース炒め。

 

母親との通話。声に元気がないと言われたが元気はあった。ただ、休みの日だから仕事のテンションで発話できないのと、ピー(自主規制)。

 

世界に対して文句ばかり言っている。僕のことに対しても僕以外の聞き手だったら文句の対象なんだろうなと思うと、なんだかとても生きづらそうで気の毒だ。言葉は自分に返って来る(というか発した時点で自分も聞き手である)という説だから、絶対自分がしないことであろうがあんまり発しない方が良いのではという気がする。同じベクトルで発話者に文句をいう人が現れるだろうし。

 

罪悪感とはなんだろうと思うと、これも自分に返ってきた自分が創った世界観であってその感情を起こした対象の問題ではなく、自分の問題。僕はそろそろこの感情からも卒業しそうな気がするため、ちょっと俯瞰して考察対象にしてみた。

 

僕がもともと構築した世界観は僕が存在しない方が良いというものだった。自身は特に世界に対して否定的ではないはずだったが、色々負の感情の対象になったから、なんか申し訳ないなぁと。で、人の負の感情(正の感情の一部もそう)って、よくよく見ていくと、当人の意識・無意識問わず、とても論理的な根拠というか因果があり、それは言語化されうるもの。ここでいう論理というのは、前提があって、ある事象に対して前提を当てはめるということ。例えば、雨の日は嫌な気分になるという結論は、雨の日には洗濯物が干せないとか、足元が汚れるという前提があるとかそんなの。

 

で、僕の罪悪感はおそらく両立しない現実に向かう感情の発信は邪魔にしかならないというところにあった。これは発信することに対する嬉しさとは両立するが、独立的にカウントされていくだけで相殺されることはない。だって別物だし。

 

ここで収めると考察にはならないためもう少し進める。なんで邪魔なのかとさらに何回も問うていったとき、最終的には現代の文化的パートナー観の一般論に至る。あれ、これって儂の素朴なものさしちゃうなって。あと、相手にとって自分はふさわしくないという劣等感も同じで、こいつらってあくまで外付けで搭載された感情の真似びでしかないなーって。

 

ほとんどの感情は社会性的な共通項を保つための道具だと思われる。

 

可視化できたからとてかなり根深い恒常性を持った感情だから、関係においてはこういうのはまだまだ拭えないな。1人のときにはほとんどなくなった。知ったことではなくできている。だから楽なのであるが別に楽して生きている訳でもない。

 

今のところ、まだ送りたいし、かと言って送るべきではないとも想うし、まぁ意味がないなら何もない方が良いだろうなという感じ。ありがたいという言うことですら関係がないといびつだとしている方向性がある。

 

一般用語にダブルスタンダードというのがある。都合よくモノサシを切り替える。母親がやっていたのは、だれだれさんちのお子さんは家のことやっているのに、あんたらは手伝わないと言いつつ、だれだれちゃんちではなんとかしてくれていたと反論すると、うちはうち、よそはよそ、とするみたいな。

 

僕は、こういう意味では無基準かもしれない。何に対しても優先する行動指針がない。想い(祈り)で言えば、何はともあれ睡眠時間確保していますようにだが。

 

さておき。

 

本日は森に迷いながらHOLICという漫画を読み返していた。最初にこの作者を知ったのは、姉が買っていた「なかよし」(あれ「りぼん」だっけ)に載っていた魔法戦士レイアースのアニメ。あの話最終的にどうなったのだっけ。柱システムがどうのこうのってワールドトリガーの神の概念と似ている。カードキャプターさくらとか、ツバサクロニクルも知っている。

 

ともあれ、このHOLICという漫画の世界観がとってもしっくりくるのだなと再読して思う。もちろん僕にはなんにも超常的な力はないが、無意識レーダーとか人によってはそう見えるかも。個別の妖怪とか現象とかではなくそういうものが在るとしたからそういう言葉が残っているということであり、実際物理学とか宇宙の話読んでいると、人間が5官で捉えている世界なぞほんの一部でしかないのだろうなということが科学的に分かる。

 

いくつか自分の森を探索するために役立つフレーズがあった。

 

「起こることに偶然はなく全てが必然である」というのがおそらくこの漫画の根本テーマなのだが、僕の解釈だとそこまで全事象的なことではない気がしている。これが問題になるのは、あくまで意識が何か引っかかる現象だけ。他のことは流れていって、「起こったこと」とさえ認識されない。

 

関係の話も面白くて、人に抗えないの事象としての「波」の中には言葉という鎖があるというエピソード。自分とはこうだと言語すると本当にそういう風にしか振る舞えないし、貴方はこういう人だと規定された相手にはそういう風にしか振る舞えない。僕は自己規定においてこの縛りを無くしたためとても生きやすくなったのだが、その分森が深くなった。まじで自分の底が分からない。

 

あと、「人を変えるのは出逢いしかない」というのがあったが、「自分のを変えることができるのは自分だけ」と組み合わせると、必然性も、自分が必然だと決断・理解できるかという恣意的な世界観が顕われてくる。自分に対して肯定的な人物を是とするのかとか、自分の知りたくなかった部分を発見させてくれる人を是とするのかとか。

 

森の深みを想うのは、「自分に無いものは感じられない」というフレーズ。

どれだけ引っかかるところがあるのだろうな。一昔前だと経済学も歴史も全然引っかかるところなかったはずだし、人の機微と言うか見せたい部分みたいなものも見えなかった。

こういうのは客観的なものではないから主観的にそう見えるだけのもの。ただ、そう見えるものは仕方がない。

 

ちょっと日記サーフィンの話に迷子して。

 

今が幸せだという話を読んで、「今」を大事にする手法も人それぞれなのだろうなって。この日記曰く過去に囚われて今をないがしろにするのは良くないから忘れても良いみたいな文脈だった。今さえ楽しければで飲み明かして忘れてしまった過去のことだったが、基準としては同じように見える。でも、当人が幸せであるならそれで良き。

 

僕としては、自分の「今」を大事にするというのは、今に至るまでに重なる今も大事にすることであって、過去という概念を無くすことにあった。色んなことが今として再現されるから、あんまりおすすめはしない。だからこの水準で人も捉える。今自分にとって心地よい人なんかより、今をどうしているかの方が気になる。

 

そういう意味で、自分の人生の基準が他人にも適用できると思える人にはそそられない。僕はもう自分の森が深すぎて照らし合わすことはできないから、他人を考えるときに自分の基準では考えられない。情報量も足りないし、1から構築するしかない。

 

要は、自分と他人はそもそも解像度が違うのに、同じ基準で捉えられると思えることがおかしいということ。平等観は社会的な文脈なだけで私的な領域は含まれてないよな。

 

本題は、料理観のこと。

料理に込められた気持ちが存在するかどうかって、どういうご飯を食べてきたかによるよな。僕は割とそういうのは分かるというか味わえる。ふつうは味として慣れてきたものがそりゃあ美味しいし、プロが作った方が完成度高いのは当たり前だが、自分の為に作ってくれたご飯の美味しさは味とは別に格別。なんだか懐かしくなってきた。

 

で、「対価なく交換できる唯一のものが想いだ」というフレーズがあって、たしかにそうだよなと思ったのだった。

 

一般的な感覚としては、想いって何かの現実化とセットで、言動は想いの証拠として機能するのだろうが、実際は想いと現実化されたものは別の存在よな。現実化の方は関係的対価の問題にはなるが、想い自体ではない。

 

要は、想いって、自分の中の基準で動くことではなく、あくまで対象に対して自分を曲げても良いと思えるかみたいなところ。なんかこういう風に書くと、好きな人に完全に合わせて従順になるみたいな風にも読めるが、これも違うよな。これも別に相手のことを想っているのではなく、相手の事を想っている自分に陶酔している。

 

 

という感じで、僕が書いている文章とはという分析に至る。

 

僕は文章も料理みたいなものだと思っている。拡げていくと情報自体もそうだから毒にしかならない情報なんて採り入れない方が良いのに。自分が口にするものはあくまで自分で選ぶべき。

 

ちょっとそれたな。

 

要は、僕は個人的な非公開な日記を書くということがなく公開日記しか書いてない。

だとすると、これは人様が口にするものであって、ということは、なんらかの想いがないと作られない。これくらいなら読めるかなぁとか、これを読んだ美味しいかもしれないとか。

 

みたいなことを考えていくと、想いって自分が主観的にそう想っているかどうかにかかわらず、いかようもなく伝播される波みたいなものなのかとなった。僕の波に気付く人は気付くし、僕も自分にとって心地良い波がある人を選んでいる。

 

次に好きになる人は誰なのだろうと想いながら、まだ前が終わってないからなぁとか。

 

どういう必然なのかを考えている。

これだけ、面倒くさい人生ってなかなかなさそうで楽しい。一向に正しさが見つからない。

 

 

では、ここまで。

遅くなっている風だが本日から最遅番だから予定通り。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。