なんにせよ

 

 

 

実家からの荷物がなかなか受け取れない。ワンチャン仕事前に来てくれるかと思っていつもより出勤時間を遅らせて待ってみたが、駄目だった。その分小走りで出勤することになったが、別に損を感じない。元気。明日は確実に受け取れるから届いたら骨を折ってくれた母親に感謝のメッセージを送ろう。餅も食べきる所存。

 

仕事場に行くと、席に別の人が座っていた。いやがらせではなく、何かの作業をしている。臨時の席はいつもと使っている位置が逆で僕以外だったら大人しくできないだろうなという気はした。新鮮みが好物だからなんのことはない。何事も気にしないように認識が更新されている自分がよろしい。

 

カミングアウトも更新されると若干身構えていたが、女性上司の外にさら上の上司が居て、彼には現状を報告していないから遠慮された。「岐阜」に行くかもしれないって報告していないのかと聞かれる。地理情報が錯綜している。僕も愛媛でしか生きていないときには関西圏の並びがよく分からなかったし、中部・東海とか全然駄目だった。女性上司の固有名詞の認識違いもどうでもよろしい。問題は固有名詞ではなく。イメージとしての僕が退職するかもしれないという認識。

 

僕が帰った後に報告されている可能性はあるが、それも好きにしたらよろしい。

条件ではなく状況の話だから、どうしようもない話。今の家の水の出を改善することはできないし。お風呂が不便なことはどうでもよろしいが、固執してここで生きることも不要。5日愛知で過ごして帰った部屋に対して我が家感ではなく異邦感が半端なかった。生活の拠点のはずなのに、もはや拠点に固執していない自分。というか、もう拠点を移した意識なのか。

 

 

そういえば昨日、古参の先輩と雑談が起こったとき、「穏やかで思慮深い」という客観評価をいただいた。この組み合わせで表現されるってなかなか珍しいような。ちなみに満月さんに頻繁に言われるのは「話が通じない」という愛称。

 

正直、仕事で使っている思慮は制限付きというか壁の内側だからあんまり表現(動き)をしていない気がするのだが、お客さんとやり取りしているのは聞こえるだろうから、何か読み取れることはあるのかもしれない。特に恒常的に雑談がある訳でもない。

 

具体的な案件に接しているときに主観的に思慮しているかというのも定かではない。

だって、知識がそのまま使えるところは思慮が要らないし、そのまま使えない応用の時に内部でいちいち知識を参照する暇がなく、反射とか反応の領域。それが正しいのかという意味で知識とか情報を参照したとしても、これは後からの確認でしかない。

 

「穏やか」の方は、たしかにそうだとは思う。

基本的にぽえーっとしているし、なんなら職場の椅子に座って背伸びを頻繁にしている。体が凝り固まると意識も固まってしまうという認識の意識的な動き。

 

穏やかの雰囲気が何なのかというと、結局は他責にしないこと。穏やかでない波は自分の中にしかなくて、世界のせいにすることではない。って現実で言ったりしたら、私のせいなのかって怒られ案件だから言わないが、スピリチュアルが言うところの不安と不穏がセットというのは分かりみ。あくまで個人的な話。

 

例えば、明日荷物を受け取れて母親に連絡したとして、野菜が悪くなっていたとする。

そうすると、母親はなんで早く受け取らなかったのだってぐちぐち言うことが予想できる。でも、ここってどちらの責任でもないし、なんなら配送業者さんの責任でもない。なるべく早く送ろうとしてくれた感謝を伝えれば、母親の到達への不安感も収まって円満になる。

 

お祖母ちゃんにも報告しとこう。

すげー良い人が現れたよって。ついでに七草セットがお祖母ちゃんが住んでいる市の生産地だったから買っちゃった報告も。

 

不満も不安と同じかもしれない。

僕は今の職場に全く不満がなくなった。状況によって離れることになるが、嫌だから退職する訳でもない。この職場も随分活気が出てきて、僕の存在の影響とおこがましいことは考えないが、存在の影響は起こりうるもの。あんまり社会性ないところで生きているし。

 

昔の職場で僕がリーダーみたいなことをしていて、辞めた後に飲み会があって、硯さんがやめた後に雰囲気が殺伐となってしまったという報告があった。自分ができないことを求める上司は駄目よな。僕が完全なトップだった訳でなく、他にも同列のポンコツリーダー達がいて、下は大変だと思う。任せた癖に気に入らないと駄目出しするとか。

 

マネジメントにも興味はあるが、社会的に何の証拠もない僕にそんな椅子は確保されない。

経験則という年輪のハードルを下げたら、今まで培ってきた年輪が否定される気がしてくる人が上層部である会社が多いだろうし、なんだかんだみんな経験則を大事にしている。経験=存在であるってなんだかおかしい気もするのだが。

 

 

どうでも良いが、僕が法律の専門職を所望する大学院に入っていた当時の飲み会。他の人は就活して社会人になっていた。ある友人(あだながふなぼー)が、遵法精神無いのに法律を勉強しているのがおかしいという発言をふと思い出した。たしかにドラマで語られる人達(ビギナーとか)は法律を前提としている模様だが、僕が法律学を勉強した目的は法律に携わる仕事をしたかった訳ではないらしい。

 

ほんとに志望していたらとっくになっているくらいの信用がある無根拠な自信。は、ともかくとして。法律学って、やればやるほど厳密ではないことが分かってくる。ルールを厳密にできるのはあくまで狭い範疇の話であって、社会という大枠になったらルールが全部網羅できるはずがない。たしかデレラさんが法律学の入門書を読んでいるという話だったが、入門書でどの本読んでいるのだろうな。言葉(概念)の学問だから、個人的にお勧めの本はいっぱいあるのだが。

 

要は、法律の条文は現実の諸々をカバーするために、言葉という厳密ではない概念でルール付けをするということ選択している。専門家だったらこんなこと言えない。動産の所有権は厳密に定義できないから、占有という概念をもってこないと無理。素朴な感覚に所有権という概念もないし。誰が持っているかというのは、主観では決められない。

 

いや、でも現役から離脱した後に読む法律学は美味しい。

正しいルールを研究する学者さんは尊敬すべき対象。実務家は運用が問題だからなんとも言えないけども、マウント取らない人はよろしい。

 

なんだっけ。

皆よろしい。

 

元気であることって、客観的に善いことがあることの因果ではない。

客観指標で何か悪いことがあったとしても、主観の自己観測が元気かどうか。

 

身体の不調に精神の不調を合わせないといけないという強制がそもそもないし。

連動しなきゃいけないっておかしいような。

 

この精神性を物語に落とし込めるかどうかどうかを考えて居るのだが、そんな小説にはそそも需要がない。だからこそやりようがありそう。何の不具合もない人が書く物語が物語ありうるか。

 

イベント事しか文字化されないのもなんか変なような。

まぁ、文字には存在の永続性の観念もありそう、昨日書いている自分と今日の自分が完全に一致することはないにも関わらず、過去自己の文章が現在の自分として認証されている。

 

進行形で自分を叙述するこはできないのが人。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢と元気を。