自己輪廻

 

 

雨の良いところは、自然の変化は無常であることが可視化されること。一般的には時間の流れと呼ぶのだろうが、人が言う時間ってもっと長い。ある時点とある時点の自分とか世界を比較して勝手に流れたことを時の経過としている。

 

今の連続としては捉えていないと見受けられる。

 

お風呂上りに母親から着信があって、うぇとなった。連日は流石にきつい。伝言メモに折り返せとあったから折り返したのだが、話し中。きっと他の人と時間を潰している。僕はこういう意味で暇人な訳ではない。きっと話が弾んでいるのだろうということで、かかってきても気付かなかったフリをしたい。

 

しかしながら取ってしまった。これは善性ではなく単なる傾向であってこれが断捨離しないといけない要因であったような感じ。ペースがいちいち乱れてしまう。自分1人で居るときが最高のペース。まぁ、通話内容は母方の祖母の家で作っている野菜を送ったというLINEでも済みそうな用事だった。

 

ありがたいことだし、届いたら電話するが、正直なところ母方の家系の人達の言葉遣いがちょっと苦手である。否定から入るというか非を言及するというか。

 

まぁ一般的なのか、どうなのか。

父方の家系の人の言葉遣いの方が好きだから、母方の方に行くのってちょっと嫌だったのだよな。単なる好みの話。

 

ということに気付いたのが今夜のこのいま。

ほんと、自分のこと知らな過ぎだわ。

 

さておき。

 

本日は晴れ。晴れの時にも雨を考える余白。

 

二度寝前にビックルソーダを買い、飲んだ後に、送った私信に対して恥ずかしくなった。何を言っているのだ、ただのセクハラだ。ただ、約束は相手の時間を縛るものだからあんまりしたくないのだよな。たまたま意志と縁が一致したときだけ会えれば良いかという感じ。

 

新刊を調べていたら、小六法の新しいのが出たということで服探しのついでにお出かけ。不要不急の、、、というアナウンスは誰も聞いてないみたいだ。いくつか服屋さんを眺めたが、イメージしていたのがなかったため買わず。楽天市場でも探したが品切れだった。赤みが入ったゆるめのニットカーディガンというどこにありそうな服なはずだが、具体的にイメージするほど同じものが見つからない。ゲームで言う物欲センサーだろうか。

 

今の僕の服装って完全に動きやすさ(歩きやすさ)がメイン。渇き易くて軽いスラックス風のボトムと、てきとーな黒ないしグレーTシャツにスウェット地の薄めの白パーカ。あとベージュの靴。「働かないふたり」で、人は服装でなく中身だって言うお父さんに対して、そうだと答えるお母さん。ただ、中身を見る人ばかりではないから、そういう人から自衛するために鎧として良い服を着るべきとのこと。

 

このお母さん人間が凄くよくできている。息子がニートであることに対して他のお母さんに愚痴っているシーンで相手から、でも良いところもあるのでしょうと聞かれた答え。「腐るほどあるわよ」。こういう切り分けができる人って良き。

 

着せられるのか着るのか。

肩書きともかけているのかな。知らんけど。

 

そうして、本屋さん。小六法の新刊は置いてあったが法律書の新刊が1つも置いてない。小六法はエキナカの本屋さんレベルでも置いているから、げんなりして何も買わずに帰った。もう、この本屋さんは特有の本に出逢える場でないのかもな。縁が切れたのかもしれない。

 

結局のところ電車で2駅移動して帰ってきただけだったが、これはこれで良い。何か収穫がなければみたいなのは縛りだし。色んな色味とカタチを見ただけで収穫ではある。ファッションセンスないから、学習が必要。

 

人混みに紛れて買い物に行ったのに全然疲れていない。

 

帰ってきて。

 

刺身を2日続けると飽きてきたため、本日は何かしら作ることにしてスーパーを歩く。これも「働かないふたり」なのだが、兄が、「ちゃんとしたもの食べればちゃんとする」と言っていたのは分かりみ。自分が作ったご飯が自分にとって一番ちゃんとしている。買ったものは基本的に一般受けに作られているし、保存料も入っている。美味しいのだが、基本的にジャンキー。

 

という感じで、副菜は長芋ときゅうりのわさびとめんつゆ(風)とお酢で浅漬け。サラダはレタス高いし、ベビーリーフもないから袋入りミックスサラダで妥協。メインは豚ステーキ肉が若干安かったから、大根おろしのソースにしてあっさり食べることに決める。おろしポン酢だと副菜と被るから、洋風のソースだが大根おろしがかかっている感じ。よく分からない味付けだが美味しかった。

 

明日届く野菜に里芋とサツマイモが入っているらしく、どう扱おうか困っている。里芋はくあいみたいに煮っころがしで良いのだろうが、さつま芋はおやつだからなぁ。スイートポテト作って宵顔さんにプレゼント(押し付け)しようかしら。得体が知れないおっさんからのスイーツとか怖すぎるな。ほんとに怖いのは、まぁ良いや。

 

僕の中で芋って栄養価が安定しなかった時代の救済的な繋ぎのイメージ。じゃがバターは美味しいが、ご飯というよりはおやつとかおつまみみたいな。根菜で言ったら人参の方が栄養価高そうだし、主食のでんぷんの主流は米だし。

 

やれやれ。

 

僕はこの年になっても人にはそれぞれ固有のミッションがあるという説はあるのだろうなと思っている。もちろん宇宙からの使命みたいなスピリチュアルではなく、好きなこととして発現するという意味で。

 

何かをすることに対して満足であるということまでたどり着くのがそもそも大変だから、社会的な準則で満足できるというのも一種のミッションだと思われる。

 

僕は未だに自分が本当にしたいことが分からないのだよな。

読書でこれだけ疑似体感していたら何か引っかかるところがあっても良いし、たしかに読むことは好きだが、読むことだけって社会に何も還元されない。

 

まだ基礎教養段階なのかもしれないという向きはある。

自分で在ることをずっとスルーしてきたツケ。一般的に価値があるものだとされていることに価値を置いていない。

 

面白い文体(=人格)としての無関係な人を気にすることができることも、現実的な行動になっていないのだから偽善とか欺瞞になりうるのだが、現実とはなんぞや。

 

現実って、客観的な世界観ではなくあくまで当人にっての「現実感」でしかない。この現実感は個体としての肉体に根差している訳だが、肉体の体感は意識によって翻訳されている。

 

現実感もほんとうは現実であることの確証ではなく、自分が生きている実感のこと。

 

こういう意味で、現実感の為に何処かに行ったり何かを見たりして実感を捉えるのってめちゃくちゃ不毛。その不毛を過ごしているうちに一生が終わるから問題ないと言えばそうだが。

 

本当の自分の現実というか存在って、何も参照できない何もしないところにある。自分が自分であると思っている外付けの基準を全部取っ払ってみた後に残る剥き出しの存在。

 

なんだか、マザー2のムの修行感があるな。

法学も一般教養。

 

ここまでか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。