すいっち

 

 

 

21:55から。

 

スイッチが切れている感じがある。書き始めが少し遅くなっているのもそのためなのかも。もう1回入れ直して頭を循環させなければ。文章脳というより、文章の摂取と排出が滞っているのかも。

 

 

さておき。

 

夢では実家の風景が出てきた。今の身体で見える庭のスケールではなく、幼少期のやたらと広い世界。空にクロノトリガーでいうところの「黒の夢」に赤い目玉が無数についている浮遊物が出てくる。その目で見られると退場してしまうという設定があるみたいで、一気にSFフィクションめいてくる。外から隔離された建造物に非難して宇宙に出ることができるというシーンで目が覚めた。

 

別にどこかに離脱したい深層心理はないはず。単にお風呂読書で読んでいる古典SFの影響だと思われる。

 

 

現実では、風邪の治りかけの満月さんが鼻づまりと喉の違和感で寝ながら唸っていた。良く寝られたのだろうか。

 

 

 

お仕事では、事務情報が満載でややいっぱいいっぱい。先輩女子が手続書類の手配について断片的に教えてくれるのだが、その後に店長から再確認が入って、手配が虫食い状態になっていることに気付かされるという、なんというか、僕が不備しているみたいなことになって、できれば体系的に教えて欲しいなと。先輩男子よ、還ってきてくだされ。

 

断片的な情報って、それぞれ覚えておかないといけないから脳の容量喰うんだよな。断片が繋がって1続きに連動すればまとまりを残しておけば良いだけだから、それほど気にしなくて良くなる。幹が繋がっている中に細かい葉っぱとしての断片情報があるとしても、葉っぱは幹と繋がっているという体系があるから落としにくくなる。

 

なんだか運転も結構下手になっていた。スムーズではないというより、精神状態を反映しているのか、焦ってスピードを出し過ぎているとか、視界が狭くてブレーキが遅くなるとか、そんなことが起こる。空気を読み過ぎてしまっているとも言える。

 

まぁ、文句を言っているように読めるかもしれないが、こういう世界観は一過性のものでしかないのも経験則で知っている。断片も続けていれば繋がっていくし、読むべき空気もほんとはそんなに多くない。

 

店長が、「(お客さんの)引きが悪いと捉えるのは自分の調子が悪い時」みたいなことを言っていて、世界観が似ていると思った。それで言うと僕は引きが良いみたいだし、ここ5、6年、自分の巡り合わせが悪いと思ったことはない。いや、厳密には不調の時に、そういうことがふとよぎるときはあるが、スイッチが入ればいやいや、自分で選んでここに在るし、楽しんでいるという見識に至る。

 

個人的には世界のせいにする逃避は楽しく人生劇場を過ごすためには最も悪手だとしている。世界のせいにする愚痴とかも、言霊としては引きを悪くするのでは。

 

先輩女子の「ナンバー2にはなりたくない」という言質が出て来たもんで、なるべく早くその重責を排してあげたいところ。この人が若くなくなったときにどういった転調になるのかまで読んであげることはできない。

 

僕は僕で楽しむのみ。昨日満月さんの古参のお知り合いの人と話したときに、なかなかこの業種しんどいよーという感じだったが、これもあくまで当人に合わなかっただけなのだろうなと。もちろん相性は大事だし、これは当人の人生劇場の話。僕は、案外これに対して精神を疲弊するということはなさげな気がする。仕事だと自分の素朴な空気感とは違う世界だし、その世界観の中でどこまでできるのかという話になってくるしかない。

 

空気を読みだすと、素朴な世界と仕事の世界が癒着している人に合わせないと、とかになってしまうのだが、素朴な僕はそんな不可能な世界で生きるつもりもなさげ。

 

 

やれやれ。

 

文章が排出されて少し調子が良くなってきた感じ。

循環しないと人間として営めない。というのは流石に言い過ぎか。いや、個人的には自分が循環しなくなったら、素朴な自分からは乖離しているとしておきたいところ。

 

言葉を読むことを素朴な世界に取り入れている人はまだまだいっぱいいるとは思うのだが、情報として読んでいるのか、世界として動いているのかというとなかなか微妙なところ。

 

本日たまたま読んだ大学生が、デカルト谷崎潤一郎外山滋比古の個人的な連動のことを書いていて、そうそう、それが人生劇場の醍醐味よな。こういう個人的な連動のいとまが無くなって来るのがオトナだが、僕は一生そういう感じで生きると思う。

 

何かを読んだときには引用文として呈示するがマナーだというのは分かっているのだが、僕はとんとこれが面倒でできない。調べてやってもそんなに時間がかからないのは分かるのだが、個人的な文章の中に他の誰かの文章を挿入するって、なんというか、文体のリズムがちぐはぐになって、逆に読みにくくなるような。

 

読みにくくても正確さを重視するのであれば、挿入した方が良いのかと思うのだが、そのオリジナルでない挿入文って、読もうと思えばどこでも読めるものであって、どこでも読めるものを固有の場に入れる意義がどうも分からない。いや、理解という意味では分かるのだが、文体の存在意義としてはどうも良く把握できないという感じ。

 

むかしむかーしのことじゃったが、語意がもっともっとほとんど手探りだった小学校とかに読書感想文が宿題になったとき、固有で書けることがあまりに無くて、やたらとフレーズを引用したり、あとがきを流用したりしたのだが、何か本を読んだときのマナーってここ由来なのだろうか。

 

いや、僕も1冊の本のことしか書けないとなると、そこで文字数稼ぎというか、場を構築するか。読書感想文という場を構築するためには、引用文が必須ということが暫定。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。