迷子

 

 

なんかすこしばかり悲しげな変な感じ。

欲しがってしまうのはいけない。感情の復習か?

 

 

昼過ぎに出発。電車から見下ろした田んぼは綺麗に刈られていた。やはり昨日のうちに終わったのか。阪急電車が想定外の人の多さ。座れなくて本を読むことも景色を眺めることもできなかった。しばらくして座ることができたが、本を読む感じでもなく、早々に閉じて車窓から移りゆく景色に傾注する。雲間から差し込むお日様の光は線が延びていて神々しい。田んぼはほとんど刈られていて、何か黒かった。焼くのだっけ。歩いている人も多かった。セイタカアワダチソウを認識したからやたらと目に入ってくる。

 

河原町について地下を歩いていると、あぁここ大学一年の頃に高校時代の同級生と映画館デートをしたところだと思い出す。何番出口だったかまでは残ってないが、自然とそちらに歩いていて、目的地とは反対だった。観た映画はミリオンダラーベイビーという女性ボクサーの話だったかな。その後たしか飲むとかもなく帰ったはずだが、何か恋愛相談みたいなものを受けていたようなシーンが残っている。人を好きになるとは何かが分からないって。デートなのに。笑

 

地上に出たらさらに大混雑。駄目だ、しばらくこの界隈には行かないようにしよう。人が多いところが苦手なのは、歩くペースが合わないのがまずある。もちろん遅く歩くことはできるが、遅く歩く方がエネルギーを使う。丸善も人がかなり多く、大型古書店で見かけて良い人数の許容量を超えていた。買いたいと思っていた本はあったが気が散ってしょうがないため、早々に退却。

 

人が居ないところ、広いところ、と、京都御所まで歩く。鴨川もどの方向見ても人だらけ。御所もたしかに人だらけなのだが、広いぶん少し楽になった。巨木の松と銀杏とミドルタッチ。

 

ただ、人が見あたらないところに行きたく、車窓から見た草ボーボーの川なら。そちらに向かいたい気持ちと裏腹にまた反対に歩いていて、余計に地下鉄を使うことになった。

 

こちらの川の方が静かで好き。(本日の画像)

手入れがあんまりされていない。草の匂いでむせ返る。これ、行政学的なフィールドワークからすると滋賀の観光地でもあったな。人が来ないから手入れに使う予算が回せない。

 

観光の人は居ないが、生活圏の人の散歩ルートらしく川から反対に目線を向けると何かしら人はずっといて、きちんと自然と同期できなかった。選んだ僕も僕だが、川の彼岸は宵顔さんの生活圏で、会いたくなって困る。(ちなみにもちろん会えるような立ち位置には居ない)

 

まぁ、ストーカーになれる程暇ではないし、生活圏に近いとか、この時代に生きていていても、時間と空間の座標がぴたっと合うって奇跡のようなものだから、よほど運か縁がないと起こらない。居たとしてもあの雑多なところで見つけられる自信もないが、もう3、4回は見ているから、無意識が捉えるような気もする。スーパーの店員さんが私服でその辺歩いていると分かるし。

 

川から駅までのルートも別の道を辿っていたら、迷子になった。行き止まり多すぎ問題。何か大明神と書かれた提灯を見かけて、異世界感はあった。そういうお祭りの時期なのだろうか。

 

という、総括すると「やたらと迷子になった日」だった。

 

ぎりぎりの曇天で、折りたたみ傘をリュックに入れることも抜けていたからどうなるかなと思ったら、最後のスーパーに寄った後のあとは帰るだけという時に降ってくれるという優しみ。ゆっくり帰ってもよかったがあんまり濡れるとおまもり代わりに常備しているピンク、青、黒本が読めなくなるから走りながら帰った。

 

雨といえば、長く過ごした恋人さんと初めて会ったときも雨だったな。その時点で恋人だったから、足回りずぶ濡れでホテルに駆け込んだような記録。

 

会わなくてもわかる、わかられる人が在るというの素朴に戻る復習みたいだな。

僕が読んでいるのは、世界の現実とされているものではない。

 

自然の中で人が視界に入ると煩わしいのは、人は自然ではなく自分ルールで動いているから。そのルールを読み取ろうとするシステムが働きだす。気にならなければ人が動いている光景は景色の一部でしかないのだろうが、そこまで人に対して薄くないらしい。

 

僕は人が自分とは無関係に好きなのだと思う。だから、見てしまうし波長を合わそうとしてしまう。最寄りのスーパー店員さんの人間関係上手くいっているのかすら気になっていて、雑談しているようだったら大丈夫、うまくいっているなとか。どれだけ仕事が遅くても仲間だし、というどこ目線か分からない安心感。

 

ちなみに、僕の職場はあまり仲間感がない。無駄に雑談する感じはなく、先生の話題だけが純粋な雑談感はある。先輩男子と女性上司はあれだけ無駄な雑談していたのに、先輩男子にとってこの場は安心ではなかったとかとなると、会話量と安心度は全く相関しないらしい。

 

もちろん、ホルモンバランスと色々原因はあるのだろうが、楽しそうに仕事しているように見えたのだが。これ穿って考えると、僕の存在が何か影響していないかという自虐思考も芽生えなくもない。

 

なんだか薄っぺらいことしか話さない人というか、自分が認められてなんぼの人だとは思っていた。一生懸命自分の立ち位置を守っている人。もちろんそんなことは発言しないし、僕は雑談嫌いだから、仕事中に誰かと無駄に話すことはあまりしない。

 

何かこの人のバランス崩してしまったのではという勝手な負の観測。

まぁこの時代当たり前が崩れたから、いつ精神バランス崩してもおかしくなくて、こちらの方が要因の可能性としては強かろう。

 

潜在意識と顕在意識の話。

 

いまこの瞬間の外界の検知はほとんど潜在意識がやっているらしい。そうやって形成した反応パターンがあるから、スマホをいじりながらでも歩けるし、意識しなくても日常は終わる。

 

で、このパターンは全力で外界をインストールする幼い時期が支配している。この時期は観察するだけで習得できるらしい。人のしぐさとか言い回しをほとんど何の意識もなくトレースできるのは、そうしないと生きていけないから。

 

その後に自我が生まれる。

 

で、面白いのが、胎児の時の環境もいずれ自我になるものに影響しているというところ。

自分の名前が体を現すというのは、もしかしたら名付けについて話し合っている環境を最初にしているからかも、僕に限定すればそうかもしれない。

 

僕の名前って、父親のも母親のも名前を継いでいない。ついでに、名付けた祖父の名前すらない。長女の名前は父親の1字を取っているのに。どういう話し合いが起こったのかは知らないが、おじいちゃんのグッジョブのおかげで、今の僕の人格上の悠々自適さがあると想うと、子供の名前に自分の理想を付けるというのもいかがかということになる。

 

おじいちゃん、この漢字どこから持ってきてくれたんだろうな。もう聞けないし、聞ける人、父親の妹さん達ならあるいはだが、嫁に行った人がこのエピソードを知っているのはなさそう。

 

僕は自分の本名は姓も氏もバランスも良いと思っている。

 

氏だけ開示しとくか。「悠」です。まさに名が体。

 

姉がこの漢字を子供に付けるって相談されたとき、好きにすればと言ったのだが、なんでこれを付けたかったのだろう。どこかで生きているだろうからまだ聞けるが、聞かなくても良い。要は僕の存在のような子供になって欲しい。あれだけぼろくそ貶して打ち付けたのに。

 

ぼろくそ言った人が僕に一目置いているところでいうと、中学の同級生で、何か夜の仕事をしていた人が居た。本名は祐介なのだが、源氏名は悠介という。

 

まぁ字面自体がカッコイイというだけという説もあるが。

語義は、ただふわふわしているという、良い意味も悪い意味もない。

 

まさに名前通りの人になっている。

 

ただ、揺蕩う。

 

どうでも良いが、今の時代の本名を開示すると何か悪いことが起こるというのは忌み名を知られると云々と近そうで面白い。

 

特定されて後ろ暗いことは書いてないから僕は大丈夫。

ストーカー云々も宵顔さんは読んでいるし。読んでなお読むほどの情報価値が僕にあるとは思わないのだが。

 

何も分からないまま退場するのだろうな。

この虚無を埋めるのは、楽しさしかない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良いハッピーを。