欲求不満

 

 

廃墟になった母屋が舞台の夢。意識が鮮明な祖母が登場し床下から紙袋を取り出して、これを渡すようにと言われていた。ネズミが齧ったようなところどころ敗れている本群が中に入っている。コバエ状の羽虫が煩わしい。転がっている殺虫剤を煙るほどにまく。次のシーンは何やら欲求不満の顕在化のようだった。こちらも煩う。求めているのに求めていない矛盾。

 

さておき。

 

土曜日はぐうたらというか、何か余計な重力がある。漫画を読んだりカチカチしたりもぞもぞしたりしたほか、タイピングのトレーニングなどをした。僕の指、かなり不器用。薬指と小指が連動している。まぁタイピングに影響があるかというと微妙だが、ミスすると文章が途切れるからこの誤差は思索のスケッチには影響があるかもしれない。

 

ミスしてなんぼというのもホコリっぽい。小学生の時の先生がケアレスミスをする人は一生それをし続けると刻印をくれているものだから、なぁなぁで良いのだなという感覚が拭えない。完璧主義とも違うのだが、なんとも言い難い感じ。

 

このハードルはやっかい。きちんと体が動かなくても良いものだとしている。

とりあえずせめてなるべく注意深く打てるようにならねば。

 

あと、色々基準が錯綜していて存在の置き所がよく分からなくなっている。これは別に問題ない。そのうち収まると想う。ただ、欲求不満気味なのは快楽向きとして現象化されているが、脳は出口を胡麻化すものであって、たぶんほんとに抱きしめたいのとは違う。これはこれで現実になれば嬉しいことだが、根本にはアウトプット不足というのがあるのではという感じ。インプットとアウトプットの釣り合いが取れていない感じ。

 

世界に対するアウトプットに対するハードルはケアレスミスに対するものとは次元が違う。表現者という存在を尊敬しているから、恐れ多いとなる感じ。一応日記という媒体では慣れてきたが、また違うよな。読まれる可能性としては等しいはずなのに媒体によって全然違う。

 

このモノサシで生きて本当に大丈夫なのかという懐疑は常にある。

仕方がないしもう戻れないのに、もっと(自分が想う)一般寄りになった方が良いのでないかとか。まぁ自身に対して懐疑のブレーキがあるというのは良いことなのか。

 

やれやれ。

 

英単語の本は、チャプターごとに色んな分野の情報が入ってきて二重に勉強になる。今読んでいるのは教育で、詰め込み教育とかは時代遅れだとされているとか。

 

ということで、1つ教育論についての思索。

 

読み書きそろばんがかつての必須項目で、「統計学が最強の学問だ」では、そろばんに代えて統計学的「考え方」を必須項目にするべきとしているし、ある憲法学者は法学的素養も必須なのではとしている。

 

現代的に教育を再構築するのであればどうしてくれよう。教育=体得として、通勤路の公園では運動会の練習らしきものが行われている。たしかに基本的な「自分の体の動きのメカニズム」は体得しておくのが良き。ただ、旧来は人の動きというより集団行動に馴れるための精神訓練みたいなところがあった。前にならえ、行進、立ちっぱなしで聞く校長先生のお話。そういうのは要らないと思う。

 

さらに体得すべきは、「読み」。まず文章を読めるようにならないと他の何も読み取れない。算数の考え方を習得するのは計算問題を解き続けることではなく(これだと脳トレ)、記号がどういう意味を持っているのかという読解力の問題。言葉を都合良く捉えないように読み取る修練は、文字情報が溢れている現代には必須の素養。

 

書きに関しては、手で書く文化は廃れていって端末をスワイプするとか声認識になるだろうから、あまり重視はされなくてよいのではという見解。手で書く言葉は芸術の領域になるかも。書くことによって読めるようになるというのは分かるが、そこまで時間をかけられないような気がする。

 

基本的な知識については、どれだけ覚えているかをテストするのではなく、端末を操作してインターネット世界からどれだけ正しく情報を収集できるかの方が大事。今どき一般的には調べる道具がない状況ってテストを受けるとか仕事場という幻想空間にしかないし、覚えているかどうかより、調べることができるかどうか、何を調べたら良いかを判断する方が遥かに現実的に有用な道具。仕事していても自分で調べることができない、あるいはする気がないオトナというのは巷に溢れている。

 

 

僕が仮に上司だとしたら、分からないことがあったら目の前でスマホぱちぱちして調べられても全然良い。まぁもともと知っている人の方が信頼できる感じがあるのは分かるが、その信頼できる人もそれを調べているから知っている訳で、過去なのか今なのかの違いくらいしかない。よほどの専門職でない限り。

 

もう1つ義務教育に入れるとすれば、収集した情報の扱い方。自分の素朴に合う情報と合わない情報が同程度の信ぴょう性を持っているとき、どうやって決めるのか。何かを暗記していくだけよりよほど実用性がある。ここには行動経済学の知見を採り入れたい。人は統計的に何をもって判断して生きているのかという教育。

 

道徳教育の代わりには法哲学とか六法の基本的な考え方。他人の立場になって考えましょうという曖昧な感情論より憲法学の思想としての個人の尊重だし、悪いことはしてはいけませんより現代の刑法学は何が社会にとって害と捉えているか。

 

ただ、このカリキュラム、習得度を測る尺度がないのが問題。

あと教える人材を確保することも難しい。つまり、全然現実的ではない。まぁ考えることは自由なのが現代の良いところ。

 

でも、知識の習得度で人を測るのはかなり時代遅れだとは想う。

今は情報端末は体の外にあるが、これが脳内チップとして体の中に組み込まれるのはすぐそこの時代だと思うのだが。リモートで在宅勤務ができるという時代はうん十年前では考えられなかったことだし、通話に料金がかからなくなったのも割と最近だし、技術の革新は感覚では追いつけない時代。

 

あと、もう1つ思索。

 

森さんの小説で、人生を自分で退場することに対する是非の議論があった。素朴に人の命は尊いみたいな尺度で見れば、一律にアウトになるし、今の日本では犯罪としてグレーな領域。刑法は人が自分の命を奪うことに対しては微妙な感じで、ただ、それに他人が関与した場合はその第三者を罰することにしている。どっちなんだという感じだが、他の国まで領域を広げると、安楽死が合法化されている国もある訳で。

 

単に悪いことだと感情で決めてしまう観念は、キリスト教の教義由来の古典的なもの。

 

この小説では、問題は、当人の判断が社会的に正当とされていることが認められるほどに正常なのかだった。国家機関が正しい退場の意志があるのか、客観的にそれを認めて良いか選別する。不治の病で認知機能がどんどん低下していく中、ここで良いという判断に第三者が単なる感情で阻止できるかという状況が極まったところが現代の地点だと思われる。

 

ただ、これを一般的に拡げたとき、まだ肉体として寿命が残っているのに認めることができるのかとなるとかなり難しい。この正否を国家機関が決めることは社会的に正しいのか。単に無責任に生き続けることが至上だとして、何の責任も取らずに退場の道を閉じるのもどうなのか、そもそも退場願望は異常なのか。

 

だって生に価値が置く人の誰も死を経験したことがないのに。

 

僕のこれに対する見解としては、選択の自由はあって良いと想っている。

ただ、その選択の前提が社会における自分の居場所がないみたいな観念にあるのであればやめた方が良いのではとは想う。

 

どうでも良いが、生活圏に仙人とは別に女性のホームレスが居て、今日は綺麗めにしていた。

すみませんって言われて無視したのだが、ここで立ち止まるとお金貸して下さいって言わるのだったなと数年前の記録。ほんとに仕事がないのか、生活保護の要件ってなんだったっけと、エセ托鉢を想ってしまう。

 

緩く人と接するが搾取されるようなお人好しにはならないことを決めている。

 

ちなみに、僕は退場するのはもったいないと思っているので大丈夫。

まぁこの話、ぬくぬく過ごしている人と、ほんとに経験がある人と温度差があるような気がするが。残される人の事を考えるべきみたいなのは何か軸がズレているような。

 

ここで、自己退場だけ重いのは、人には意志があるという観念なのだろうな。

まぁ、僕も父親以外にそういう人居ないからぬくぬく寄りなのかも。父親に対してはずっとずっと無念。意志がどうのより、僕が僕として接することができなかったことが。

 

暗い話になってそうな感じだが、全くそんなことはない。

生きることは、無念も自責も向き合ってそれでも在るがままにすること。

 

ちょっとアウトプット欲求不満が解消されたかもしれない。

 

はい、こんなところでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。