存在感

 

 

 

 

なんとなく倫理観が全般的に破綻している夢から始まる一日。全方向に破綻している物語は認識されなくて、どこかは現実と地続きでないとなぁと思いながら見ていた。中身は省略。

 

二度寝前に喉が乾いたから自販機にカルピスを買いに行った。寒さが染みて寝付けない。朝活はせずにぎりぎりまでごろごろ。

 

カラスはこれくらいの気温の方が活発なのかと群れを眺めながら出勤。

信号がない交差点は、往復で止まってくれる良心的なドライバーさんに当たってほっこり。頑張って歩行者をスルーした先が赤信号なのに、なるべく前に行こうとするのは、電車の中で走って前に行くのと似ているような。ここで止まったら青信号が赤に変わってしまうという切羽詰まった状況なら合理的で分かるのだが。

 

 

お仕事。

 

特に話しかけてくることがない古参の先輩が、「硯氏、やめるの?」と聞いてきた。どこで聞いたのかはどうでも良くて、「氏」という呼称が個人的に嬉しい感じ。別に隠すことではないし来月くらいには周知されるだろうから、辞めますよと返す。こまごまとした事務的退職情報を開示した後に、心象を語ってくれる。

 

硯氏のような即戦力の人材は居なかった、年下上司にも惜しまれているだろうって。いやいや、個人的には外の人を見ていて同期ないしその後に入った人も含めポンコツ具合が群を抜いているという印象なのですが。とまでは返してない。現実では最初はポンコツだったと思いますけどという返答。電話応対スキル全くないところから飛び込んだから、上層部はほんまにこいつ大丈夫かと思っていたに違いないという解釈をしている。

 

自分をポンコツだと評価できることって卑屈になりうる筋もあるが、少なくともポンコツ具合を他責にはしないし、調子が良ければ伸びしろになるから割と良い資質だと思う。これが私は知らない、分からないとかになると、相手におねだりすることになりそう。単なる語感でしかないけども、知らないから教えて欲しいみたいな姿勢の人って、相手は知っていて当たり前みたいな強迫的な感じがある。ポンコツは単なる主観だから、相手とは無関係。

 

あと、凄く嬉しい言い回しだなと思った自慢をする。僕が居なくなったら単なる頭数が減るから、人を増やさないといけないなとその先輩が言っていて、上司の上司もそういうことを言っていましたと返すと、でも、「硯氏の代わりになる人材は居ない」って。いやいやとしか返せなかったが、特に雑談もしてない僕をそこまで評価してくれるのかいな。

 

優秀だからここに居るべきではないよなとか、私も辞めたいというぼやきはともかく。

 

これは別に、自分が気にしていることを相手が見てくれていたという話でもない。

成果と関係ないところで遊んでいるのがバレていたという感じでもあり、お客さんとのやり取りがどの上司より聞こえている席でもあるというくらい。

 

古参の上司とお姫様先輩が暇で、僕が少し厄介な案件を処理し終わった後に、3人でその案件について雑談めいた議論が起こった。こういう場は純粋に楽しい。顧客の属性とか仕事上の不遇さを愚痴るのではない、単に何が一番の解決になるかという話。この雑談を支配していたのが僕だからなのかは不明。

 

この感じが浸透すればもっとこの職場の風通しが良くなる気がするが、僕はちょうど良く居なくなっちゃうから、あとのことは関与できない。

 

なんだか、人って居場所=好評価みたいな承認欲求があるみたいだが、個人的にはそういうのは一切なさげ。一切というと言い過ぎかもしれない。ただ、居場所と存在を連動していないという感じ。普通に生きて居れば居場所はなんとなくできてしまう。これっておそらく僕の地頭とか空気感ではなく、自分の中で自己の存在を時空的に定義していないからだと想われる。

 

フロイトとかユング的に自分として定義すると、物と物の衝突とか摩擦が必然的に起こる。人と喧嘩することで相手を知るとか関係が上手くいくという当たり前の価値観がずっと疑問だったのだが、人を固定的に捉えるって自他の存在を馬鹿にしてないかと想っている現在。

 

体験によって人は更新されていくし、無駄に自己主張しなくても、自分は無定義で良さげだし。関係を条件によって限定するってとても大事だが、だとしたら、誰かのパートナーとして僕が選ばれる訳が無い。モテのテクニックなんて皆無だし、3年程自発的に恋人居ない期間を置いたにもかかわらず、ちょうどいい満月さんが現れてくれる。

 

都合の良さを経済学では効用と捉えるが、効用で世界を見ている限り、もっとも非効用なのは自分となりそう。自分に効用がないから世界に効用を求める。

 

お風呂読書で読み終わってくる本が多くなってきて、哲学書を追加しようとなった。

個人的には読みかけのベルグソンさんのなんとかと自由が良かったのだが、そんなに都合良くはいかない。カントさんの純粋理性批判の上巻が見つかったから追加した。

 

経験から認識が始まるという説は分かるのだが、本当にそうだとしたら世界に面白みはないような気がする。経験から認識が始まるのは確かとしても、認識は経験を越えうるから芸術が起こっているような。だから人生劇場を楽しめる世界になっている。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。