もひーと
悪だくみが成功した。たまたま当日予約で見つかったビジネスホテルは最初にこの地で泊まったところだったらしい。たしかに来てみると分かる。もう何度か来ているから勝手知ったる場所だなぁと勝手に思っていたら、ホテルの反対側の出口から駅を出て、あれ、これ別のよく使うビジネスホテルだったわとなる。
どうにも締まらない。ただ、これで良いとも想う。
なんというか。これぞ自分の緩さであって遊び。
どうでも良いが、僕のセンテンスが気障と言われた。そうだろうか。
文章にも滲んでいる? いや文章に滲んでいるのはおやじギャグ風の韻の小躍りなような。たぶんもっとかちっとした文体でもいけそう。きちんと人に読まれるような文章も面白そうではある。
勝手知ったるの「勝手」はきっと勝手口から来ていて、勝手口って何だろうと想像とすると、家の中で自由に出入りができる通用口なのかな、だとすれば、自分勝手の「勝手」も奔放性で、ニュアンスが違うだけ。緩みの遊びも紐で言えばまだ伸びる空間があるということで、遊びの本質は、この可能的な余白で動くこと。
言葉とはこういう風に戯れていたいのだろうな。言語学みたいな言葉を物質として捉えるのも味気ないし、自己の存在の一部とするのもなんというかおこがましい。広辞苑的な意味は窮屈で、自分の中でその言葉どういう意味合いを持っているのかのほうが楽しい。
言葉を自分事にも他人事にもしないちょうど良いところがまだあるような。
さておき。先に進むが時間は戻る。
朝はとても早く目が覚めた。起き抜けに散歩しながら文章を読むのが朝ごはん。スキを推すかどうかはてきとーです。1分間の可読数ってどれくらいになっているのだろう。ともあれ、きちんと肉体の朝ごはんも食べるのが休日。落とし卵うどんと、納豆ご飯と梅干と代行のゆかり浅漬けと。
朝から良いことが2つ。読んでいるサッカー漫画の最新刊が出ていた。発売日は追っていないからたまたま今日発見した。待ってはいないがあったら嬉しい。他人の人生劇場の視野の広さを体感して、サッカーにそれが生きるという名場面、おそらく引退しそうにしている先輩の世界線も変えそうな影響力。
もう1つは、現実の人の日記がしばらく止まっていたのだが、更新されていた。これもたまたま見つけた。周期的に更新されない文章はルーティーンで周回できないから、時々しか見ない。時々の頻度が高いかもしれないのはともかく。
どうやら、おおかみこどもの雨と雪みたいな家に住んでいるらしい。もっと幸せバージョンで。おめでたい。生活の居場所というのは大事。
これを読んだこともあって、本日は是非とも生活について非生活の場所から書きたかった。
対象の中に居るときに対象自体は観測できないのではという疑義がある。というか、対象の中に居ると対象が存在の一部として観測されるのか。
という感じで、10時前にお泊りセットを詰め込み出発。
悪だくみの内容はほんとに非社会的で倫理的に書くのもはばかられるのだが、僕はそういう奴である。
「運試しであぶく銭を得たらそれを用いて恋人さんのところに遊びに行く」
こんな世の中を馬鹿にしているような試み、普通は成功することがあるはずもないのだがその世界線になってしまうという都合のよさ。劇中には、「これが沼に陥る人の感覚なのか」とか疑念はあった。結構、人の欲求を煽る演出とか爆音で非生活感とか、なかなかよくできている場所。赤は心理学的に人の興奮をそそる色だし、ボタンとか引き金とか、自分が運を呼び寄せたと錯覚もできる。
からくりサーカスに座れただけである意味満足。原作厨なので、フランシーヌの演出で泣けてきてしまった。「言葉をくれてありがとう」。あと、僕はト書き的に現れる道化師は藤田さんだと読んでいて、藤田さん演出が出てきて嬉しかった。たぶん確定当たり演出なのだろうが、それより、藤田さん良い漫画いっぱい書いてくれてありがとよーみたいな。
最終的に原作よく知らないコードギアスで爆発してしまうというの世界線の不思議。
そろそろ遊びにいく駄賃が無くなるかなというところで、何故か人生劇場を想う演出が出てくる。中庸性はともかく、中途半端なのがどうもよろしくなかった。ここでとんとんで収まるくらいなら無くなった方が笑い話になるし、まだ何かあるという遊びがまだあるのではという中間で居るのは世界線を移動していない。結果から見れば良い世界線に行ったが、別に自分が選んだ世界線に文句を付けることはない。まぁあぶく銭も世に流すし。
このなんとなく収まりが付いている自分という世界観が僕にとっての埃であり、生活観だったのだろうなと気付いた本日のピンポイントの世界線。
本題。
「生活」ってなんだろう。生きて活かすという字面の割に、遊びを辞めて場所を確保することに傾注するのが生活という観念っぽい。別にもともと生まれ落ちた生活がそこだったのであれば、そこを理想としてなぞるのは問題ない。
ただ、僕はもともととして生活の場所が安心できるところではなかった。もちろん物理的な存続という意味で言えば冬に暖を取れる家があるのは安全だが、それだけでしかなかった。
学校に行きたくなかった中学時代について、個人的に不登校という概念が無かったからだとしていたが、実は天秤にかけて家にはより居たくなかっただけかもしれないなって。家という場所は僕の肉体を保護する場所ではあっても、僕の精神を守ってくれる場所ではなかった。
過去の話はどうでも良いのだが、この前提がないとこの先もないのでもう少し。
一回同棲生活を失敗した。×は付いてないが、そんなこともどうでも良い。
やり方としては足りないところを補い合うという感じ。僕も相手も自由に生活できない。
これは僕が世界観をもともとの場所から従属されていたから。僕がもっときちんとしていたら、一緒になる世界線もあったかもしれないが、きちんとしていたとしたら、きっとこの人には出逢って居ない。
そこから、お付き合いした人は居ても、共同生活した人は居なくて、こつこつと独り生活をしていた。この時間で、人が生活としてしんどいとしていたことが、特に取るに足らないことに気付かせる。料理とか家事とか、別にきちんとしなくても良いことだし、そこを補い合ってもしょうがない。だって、ここは誰にでもできることだし、できない相手に対して一般論を持ち寄るところでもない。
「生活」とは、独りで生きて活かした後にあるものという意味の中独身生活で試行してきたここ数年。1人でも良いということと、パートナーが居なくても良いというは違う。足りないところを補ってくれるという条件付けだと、何かあった時に相手を責めることになる。生きてきた生活圏だとそれになぞって他責にすれば良いというインストールだったはずなのだが、僕はこれがどうにも嫌だった。
だから、まずは独立する。
これが生活の前提。
それでも、存在している人が、共同生活できる人になる。
というか、僕のこの存在で良いと承認できる人。僕は知らん人まで承認しているから好感にはならない。もちろん何か僕に益があるという意味での承認はない。見えること自体が益、それはある。
だから遊べるし、いまここにいる。
僕の中では生活における雑務は生活ではなさそう。もっと楽しそうに生きれば良いのに。
何かを否定しないといけないって、攻撃じゃなくて守備なんだよな。
明日こそカラオケで叫びたいところ。
結婚するかは分からないが、生活できそうな人が現われている確率変動。
ここまで。
おやすみなさい。
良いパートナーを。