外用の駄文

 

 

本日は晴天なり。外は寒くても晴れていると仕事の昼休憩に外でお弁当食べることを挑戦したくなる。風がなくて日向であればまだまだいける。帰り道には半分ちょっとのお月様。

 

 

もう少し外用に整えた文章を意識しようという次第。ここで言う意識は内観というかその自分を眺めること。ふつうは潜在意識・無意識的な行動を観測できないということだが、見ようとすれば眺められる。本を読んで出てくる心象風景を眺めるとか、自分が何を話しているかにまなざしを向けるとか。

 

自分の文章のジャンルを考えていた。日記。確かにその日の自分のことであればなんでもかける器の大きさによりこう言っておけば間違いはない。なんとなく徒然草をモデルとしていることからすると、散文とかエッセイでも良いのかもしれない。ただ、なんとなく浮かんだのは「駄文」だった。

 

一般語用で言うところでは、「つまらない文」になり、まぁ確かにそうだと思う。ただ、つまらないかどうかを決めるのは書き手ではない。ここから「へりくだった」語用に繋がる。主観的イメージだと、読んだ後に読者に何の変化ももたらさないという意味だった。少し調べると「大事なことを何一つ書いていない文章」という名付けがあり、分からなくもない。

 

「駄」という言葉をさらに考えたとき、つまらない以外でも語用があったよなと思う。まずはお駄賃。ここではおつかいをしたお小遣いというニュアンスで、つまらないは出てこない。あと、無駄。これもつまらなくないではなく、意味がないというニュアンスだから、何か違う。

 

ここまでなんとなく当たりを付けたあとに語源を調べる。なるほど馬が荷物を運ぶ像がもともとのカタチらしい。そこから転じてつまらないというなった背景は少し調べただけではなかった。馬は走るものであって、走らず物を運ぶだけでは見ていて味気ないとかなのかなと想像。

 

この語源から考えると、ちょっとイメージが変わる。無駄は、運ばない・運ばれないというニュアンスで、それをする意味がないということなのだろうと想像できる。あと駄作はつまらない作品という意味だが、作者はそれを書いたことで十分運ばれているような。

 

駄文も人の何某かを運ぶ文章として良いのかもしれない。最低限、読んだ分の時間は経つ。あと、読む前と読んだ後では心の座標がずれることもあるかもしれない。このずれに至らせるということで、駄文。もちろん「つまらないだろうな」というニュアンスも込み。個人的にはもっと漂う空気みたいなイメージで書きたいところ。ここに当てる言葉は決まっている。

 

漂流文。

 

駄文という言葉だけでここまで味わう変人。

言葉の意味は言葉で言い換えられるものではなく、イメージみたいなもの。

 

さておき。

 

色々並行的に読んでいる本群の情報が統合されそうな感じでとても興奮している。本の情報は実体験に劣るという観念は僕にはなく、実体験を鮮明にする作用もあると思う。

 

潜在意識は感情を持っていない、言葉に込められた数百億のナノマシン、実存、みたいな断片が、物理学のエントロピーによって縒り合される感じ。こういうとき、なんの専門家でなくて良かったと思う。専門家としての説明責任を負わないし、専門の枠から外れて全体的に考えて良いというところ。

 

潜在意識は感情を持っていないというのは、潜在意識は膨大な現実的問答集のようなデータベース。現実の今を常に処理している機能であって現実を評価するような暇がないという話。だとすると、自分が何かをしている、何か体や心に変化があることに対して感情というラベルで評価しているのは、一次的に学習されたものではなく、二次的に名付けられたもので、感情として評価することは、なんというか、自明なことではない。

 

このデータベースが人格に関しては収集するしかなかった時期のごく狭い環境で決まっているのだからたまったものではない。もちろん悪いことだけでもなく、意識が自我にかまけていても、自動で現実を動いてくれるというのはある。ただ、ここの動きって、いつも最短ルートになるし、段取りをしてくれない。まぁそういうものであって万能ではないのだから当たり前だが。

 

気になるのは、学習段階に特有の脳波があるという話。環境の情報を言語ではなくあるがままとして受けいれることができるのだとか。親の口癖とかしぐさをトレースするとかのやつ。はたしてここで移動しているのは何なのか。

 

物理学の一般向けの本で、エントロピーのことが分かり易く書かれていた。人と手を繋ぐと体温が移動する。この熱の移動とはなんぞやという説明。一般的知識として、熱は高いところから低いところに移動するというのは知っているが、物理学でいうところの熱の移動のメカニズムに対する言及は何故かちょっと感動してしまった。

 

熱の高さ低さは、分子の平均速度による。高い方は平均速度が早くて、遅い方(温度が低い方)にぶつかることで、遅い方の速度が上がって、早い方がその分遅くなるということで温度が移動するというのが物理学的な説明。

 

なんだか叙情的な感じがするのは僕だけだろうな。

 

そうして、エントロピー

エントロピーは低い方から高い方に移動するというのが、熱力学の第一法則とのこと。個人的にはあんまり分かってないが、確率的にそれが起こる場合の数が多いことがエントロピーが高いということらしい。要は、自然としてよりありふれた状態。

 

サイコロで言うと、キングボンビーに二十個回されて、全部が6ないし1になることは縁とロビーが低くてだいたい中間の総数になることが高いとされる。

 

世界はよりありふれたものに向かうというのは、ある匂いがそこだけに留まるのではなく拡散していくという意味では分かるが、でも宇宙はそうなってないよなという不思議を語る本。惑星が形成されるとか、人間のような知的生命が生まれるのはエントロピーが低く流れているような。

 

ここからは独自説。僕は物理学者ではないから、そこだけで考えなくても良い。

 

人には熱力学の法則が適用されていない。いや、物体としてのヒトは当然この法則に従っているし、常に放熱することでエントロピーをリセットしている(らしい)。

 

でも、人の心の動きも脳波という物理現象とも捉えられる訳で。

脳波とか音波の波もエントロピーの移動があるのではと推測される。ただ、どういう状態が高いとか低いとかは勉強不足で分からない。

 

ここで、数百億のナノマシンという頂いた言葉からの発想。

言葉にエネルギーがあるとすればここにも非物理の移動があるはずということが類推できる。

 

ダイナマイトがエントロピーとしては低いが良質で使い勝手が良いという意味で良質なエネルギーという話があったが、言葉も無秩序なエントロピーが高い精神を凝縮化する結晶化ではあるのだろうな。

 

精神自体は言葉にされることなんて求めてないし、それが自然のありふれた状態。

そこから出た言葉に特にエネルギーがないのは当たり前。

 

まぁ、僕は長文を書くことにエネルギーを使っている感はない。駄文だから書いた後の僕がどこに運ばれるのかが面白いなという感じ。これをnoteに公開してみる所作はエントロピーが高い、いや低いのか。

 

表現は自分のエントロピーを低くすることをあえてしている変人の所作ではあると思う。

この低さがむしろ自然体であるということはありうる。

 

要は、自分が個人になること。

 

この視点面白いからもっと遊んでみたいところ。

人は基本的に錯綜した存在なのだろうな。矛盾でも良い。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。