世界観

 

 

 

なんとなく寂しさを感じる1日。人間味。寒さにより体温を求めているというよりはバイオリズムの波のような感じ。生身に引き付けられる周期。こういう味わいも良い。

 

別に失敗でもなんでもない所作がとても重くなるような気分で、宇宙のスケールでの思考によってそれが紛れる訳でもない。落ち込んだ時には世界の広さに目を向けるみたいな話があるが世界の広さは落ち込んでないときに見れば良いこと。凹んだ時には世界の広さにも関わらず自分が抱えている具体的なものが等価であることをきちんと認めることが肝要なのではと思った。どちらも自分の世界にあるものなのだから、自分事がちっぽけだとか評価すると余計卑屈になってしまう。

 

世の中にもっとつらい人が居たとしても当人の辛さが紛れる訳ではない。スケールは関係なく、寂しいときは寂しいし、辛いときは辛いで良い。

 

仕事で元気に聞こえるように振る舞っているという所作が応対の専門家に認められた。1つ意識すると抜け落ちることがあり、まだまだではある。この反動で、元気ない自分もおるで、という反発がやってきたのかとも想う。いや、そんなこと知ってますがな。

 

自己を掘り下げると自衛で元気がないように振る舞う必要があったという歴史はある。こういう状況では疲れてみせないと、しんどそうにしないと、みたいな。この学習で本当に自分がそうであると錯覚してしまう。例えば、個人的に学校のマラソン大会好きだったし、情報を収集することにも本当は苦がなかった。

 

ほんとうにしんどいのか、しんどいとさせられてきたのかはきっちり分けられることでもない。いや、僕が学習段階だからきちんと分けられていないのか、はて。

 

いや、別に特にしんどい訳ではないのだが。

悠々としていることに無理があるのではというメッセージなのかもしれないなと想っただけ。

 

さておき。

 

人間関係について考えた1つ。仕事の同期とたまたま帰るとき話す機会があり、このご時世で使用禁止になっていた会社の喫煙ルームが復活していることを教えた。たぶん知らないだろうなと推測しているのに特に積極的には教えようと思わなかった。もしかしたら同期が禁煙してこの情報を必要としないかもしれないし。仮に有益だったとしも、僕の中には時に意味を感じない。薄情者であり親切ではないという自己評価。

 

でも、言ってみると、貴重な情報をありがとうございますという感謝の言葉があった。たぶん同期は僕に感謝をしようがしまいが僕が何か現実的に変化するとは思ってない。こういう対価関係にない感謝は純度が高くて嬉しいのだなと思った。自分が良いことしたとか自己肯定感に返ってくることもなく、ただにっこり。

 

その後、半分とちょっとからさらにちょっと厚みを増したお月様に見守られながらスーパーに向かう。本日当たったレジは、個人的に一番好きな眼鏡の店員さん。ブレずに丁寧で早い。ありがとうございますって会釈をしてくれるものだから、こちらも同じことを返さずにはいられない。ついでに、ビニール袋が開きやすいようにちょっと拡げてくれるという過剰なサービス!

 

ここで想っていたのが、人の印象ってほんと、紙一重なのだなということ。

もう1つのレジに居た人は、色々と自分ルールがあって急いでくれているのは分かるが自分に精一杯という感じがあり遅くて、選べるのであれば遠慮したい。単純に比べるとこの遅さって数十秒ぐらいなのに、印象として凄く無駄な時間な感じがする不思議。早さだけいったら、もっと早い店員さんも居る。

 

こういう自分を観測して、ヒトってほんとにちょっとしたことで人を選別しているのだろうなとなる。僕が見ているのは、してもしなくても良い相手を慮る所作。それが見えるということは、それを自分がしても良いということになる。

 

たぶん、人に対するプラス方向の違和感ってここ。当人にも意識されていないかもしれない何か。でも、対価関係があるからそういうことができないというのはいかにも不自由。今後はもっと自由に人と接したいところ。

 

対価関係っていかにもアレな呼び方だが、要は家族とか近しい人間関係のこと。別に個々人が優しくしたら優しくしてくれるみたいないちいち下心をもって言動しているとは思わないけど、社会人類学みたいな意味で、そいうパッケージの関係なのだと捉えているのは確か。社会的なグルーピングって基本互助が前提になっている。そういう意味合いなく自然にできる集団って、なかなかないのでは。

 

ややこしく考え過ぎて、生きるのがしんどそうとか思われそうだが、家族関係のライトノベルで素朴に泣けるくらいの人間味はある。

 

最新の枠だからネタバレはしないようにして。既存である、もしくは既存になった集団、要は家族とかパートナーとかの挨拶の必要性とか、承継で泣けた。ここにあるのは、素朴な嬉しさより、常に喪失を孕んでいるという意味で不安定な安定への感謝。

 

関係が離れるという交換がないことによって、死による離別がダイレクトにあるのがこういう関係。明日はもう居ないかもしれないのだからきちんと挨拶をするという観念は父親が亡くなる前に読めれば良かったのになという感じ。

 

僕の家族関係って結構乏しいし、今想えば、家族であることで手抜きしている感がある。これは僕の経験則上の友人関係にもなんとなく一致する。単に連絡を取り合っていればとか、現実に会っていればみたいなのとか。

 

もちろん、相手の意向関係なくずかずか踏み込むみたいな話ではない。

自分の世界観とは別の人と捉えた上で、その人を見るかどうか。

 

これを手抜きと評するのは変な感じだが、僕はこういう意味で手抜きしたくなかった。そとからの基準で父親とろくに話すこともなく離れてしまったということもあり、正しさはそれ以上の判断をしないという意味だろうし。

 

自分が主人公ではないという世界観も結局主人公は当人。

 

どうなることやら。

(この世界観だと宵顔さんの可愛さはとてつもない)

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。