テクストに対する愛

 

 

色んな意味でよく歩いた1日。人間も動物だから動かないとストレス溜まる(道中のドッグスクールのシャッターに運動ができてストレス発散! みたいなことが書かれていた)。

 

1人での未来の行動の記述は予定ではなく既定(予言)としている。とうぜん、恵文社に行ってその後のノープランは一乗寺界隈をうろついてきた。

 

 

道中は文庫を読み返すかと、たまたま手に取った美学をモチーフした小説の第一章にピンポイントで「シュールレアリスム」という単語が出てきた。もちろん、そういった思想があることは1回目に読んだ時にも知っていたが、概念に注意が向かっている今読むと随分趣が変わってくる。

 

美と遊ぶ(遊戯)はとても近いところにあるらしい。この遊びは滑稽という意味合いもあって、一般的に大事にされている現実と非現実が倒錯する。

 

「どんなテクストも愛をもって読めば謎が出てくる」

 

 

電車の中、寒い。スキニーとチェスターコートは良かったが、インナーのワイン色のシャツが薄かった。自家発熱がなければただの薄い肉体だから、動いてないと寒い。まぁ寒いということは体温が外界に移動しているということで、悪いことではないのかもしれない。エントロピーの推移。

 

どうでも良いが、このご時世(ご時勢でも良い)によって生まれた公的空間の換気って功罪でいうところの「功」に当たるのだろうな。どんな物事も罪だけにはならず、ただ、罪が大きすぎて功が取るに足らなくて見えない(見ようとされない)。マスクは功罪どちらの意見もありそうだが、個人的には表情読めなくても(読まれなくても)あんまり悪くないし、匂いがあまり分からなくなって良いことっぽい感じではある。息苦しさでも物理的なのより精神的な方が遥かに罪だし。

 

出町柳から叡山電車に乗って一乗寺へ。

 

こんなに普通の街並みだったかと思ったが、きちんと見つかった。外観で見ると小さいお店なのだが、内観はとても広い。めちゃくちゃ本好きの人の本棚みたいな並びだから、作者で探したり、出版社で当たりつけたりができなくて、とても探し甲斐がある。ちょっとうろついてみたら、1つの机にシュールレアリスム。世界が都合良過ぎる、おい、神様よ。

 

もっとも気になったのは、「シュールレアリスム辞典」だが、誰かが解釈した定義もなぁという感じもあり。提唱者であるブルトンという方の詩作集もあって、ここに「ナジャ」が入っていたらきっと即買いだった(行きで読んでいた小説に出てきた作品)。

 

ぱらぱらめくると本人の言葉も入っている。自動手記を提唱した人らしいが、「ゆっくり書くのと早く書くのでは内容が変わる」という趣旨の発言はまさにそうだと想う。言葉が変容するというより、言葉で記述される前にあるうごうごしたものが記述されるときには変わっている。同じようなことを坂口安吾も書いていた。もっと早く書けたら物語が全然違うものになる、みたいな。

 

 

吟味した結果、入門書っぽい「シュールレアリスムの受容と崩壊」を選択。この思想が日本にどう入ってきて解釈されてきたのかという話でちょうど良い感じ。少し読んでみたところ、冒頭に定義があってありがたい。

 

「理性に統御されていない、美的、道徳的なところからも離れた自動的な書き取り」

 

詩作の人だから、詩とはこうあることが本質なのだということなのだと思われるが、この自動式がフロイト精神分析と親和性があるとちらっと聞いて繋げると、人の本質は既存の価値観の外を志向しているということになりそうな。

 

もう1冊くらい狩猟しておこうとうろつき、ボルヘスの「夢の本」をタイトルだけで狩った。なかなか面白そう。

 

で、ここから物理的なうろつき。

 

朝ごはんしか食べてなかったから100円ローソンでタケノコおにぎりとサンドイッチとビールを買って、その辺の公園で補給する。100円でない商品の方が多いのは黙っておく。

 

森に禁断症状が起こって、てきとーに住宅街の奥にある森を目指して歩く。どこに歩いても人が居なくならないのが京都。知らないうちに参詣ルートみたいなところを歩いていた。住宅街と森の境界を歩く。個人的に変な路地も好きだから問題はない。この先に何があるのだろうとか、人の営みを眺めながら歩くのが楽しい。

 

境界線を歩いていると、もののけ姫のたたらばが想起された。ぎりぎりの山並みまで開発しいている。

 

ただ、都市と森(自然)って原因が違うだけで同じような「もの」。自然だって植物を育てる物理的な条件があって育っている訳で、勝手に生えてくることはない。街も勝手に建物や道路ができ上がっているわけではなく、人がそうしようとした条件がないとでき上がらない。

 

どちらにせよ、世界は勝手に出来上がっているものではない。

 

稼働していない不動明王の寺が境界にあって、森成分も補充できた。山道に少しだけ入って、大木にハイタッチしたら、しばらく指先が痺れる。逢えて良かった木。ついで財布に余っていた5円玉を賽銭箱に放り投げた。

 

そういえば恵文社で、「人は人を救えないが、癒すことはできる」という本があったな。

 

その後は自動手記ならぬ、自動歩行でいつの間にか鴨川に辿りついた。歩行した距離はきっとスマホが記録している。流れるものが好きだ。

 

鴨川には鴨が居る。だから鴨川なのかとか思いつつ、人のバリエーションも多々。

スケボーの練習場みたいな一角ではやんちゃそうな人達がうごうご。煙草を捨てるな、唾を吐くなって捉えるが、まぁこういう世界観なのだろうな。

 

吹奏楽の練習をしている一角があって、いきなりルパン三世のテーマを弾きだす。わらけてしまう。

 

マスクの効用は世界にわらけても不審者に見とがめられないこと。目でバレている感はなくもないが、僕の目は造形的に悪くないと想われるため問題はあんまりない。マスクイケメンとまではいかないだろうが。

 

結局世界は遊戯するかどうかなのか。

遊戯の本質は美術展で破棄された「泉」。

 

言葉は名前でしかなくて、どう名前を付けても良いし、名前に囚われなくても良い。

 

どうでも良い帰り道の満員電車。学生っぽい人がいっぱい乗ってくる。

 

手が小さい人にフェチシズムを感じるのは「ぐるりのこと」(映画)と、遺伝的なやつなのかもしれない。僕の手は骨ばってしっかりしているから、遺伝的多様性として欲するみたいな。

 

ただ、僕が絡めたい手は、おそらく同じくらいしっかりしている。

でも、何故か求めてしまう。

 

海辺のカフカ」の大嶋さん曰く、「求めているものはやってこない」とのことだが、求め方の問題という世界観にしてみたい。

 

人は自分の栄養分ではない。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。