良い貌

 

 

感傷の連続に物理的な身体に寒気を感じる。

 

箱詰めしつつ片付けつつ。親しんだ本棚代わりのラックも解体。下の方にあった専門書達はだいたい廃棄になるのだが、歴史が積み重なっているなぁという感じ。小六法が10年分くらいあった。歴史とともに埃も積み重なっていて、マスクをちゃんと活用した気がする。

 

別に捨てていくこと自体に感慨がある訳ではなく、それぞれ思い出が付着しているから、残していく影を想うとなんとも言えない気分。まぁ、世界線を移動するためには代償が要るというのは分からなくもない。対価ではない、差し出すというか、去っていくもの。

 

行動が若干重い(遅い)のはそういうのもあるのかもしれないな。退去費用なんかより、退去していく歴史の方がプライスレスで重い。

 

そういえば夢で実家の母屋で雑魚寝している間に親戚筋ではない誰かが隣に寝て去って行ったシーンがあった。起きた瞬間若干うすら寒い感じがしたのだが、この部屋っておそらくそういう存在が住んでいる。いや、霊感もないし、何か具体的に起こったこともないはずだが、なんとなく人を滞らせる感じがある。この部屋が安かったのってきっとそういうのがあるのではと勝手に想っているのだが、真相はどうでも良い。

 

 

箱詰めは20箱中19箱終わった。最後の1箱はお風呂読書用の本を詰めるから空けている。あと1箱あれば本はなんとかなりそうだが、行った先の服がなくなる。コート2着はお気に入りだからなんとか持っていきたいところ。持って行けなかったところで冬まではまだ先だからなんとでもなるに違いないが。

 

しかし、Sサイズでたかだか20箱とはいえ、緩衝材なくても中が動かないようにかなりきっちり詰めたから、引っ越し業者さんは内心舌打ちするかもしれない。重ねて移送されるから潰れないように箱詰めしている。3日前から重ねっぱなしでも全く変形しない。文庫本と専門書とハードカバーと組み合わせて、20キロはたぶんいってないはず。ちゃんと下面は十字にガムテープを張っているからそこが抜けることもないはず。

 

これは知っている、これも知っている、と詰めている本の中に全く知らない本もある。積読はほとんどないはずだが、演劇関係の出自不明な本が1冊あった。他の積読はどういう経緯で買ったのかはなんとなく分かる。貰い物ではないからおそらくどっかでテンション上がって買ったのだろうな。

 

ちなみに、まだ箱詰めから漏れている小説が目線の高さに置いてある。「クラクラ日記」、「河童・阿呆の一生」、「零崎曲識の人間人間」、「日暮旅人の宝物」、「青い城」、「風の万里、黎明の空(下)あと、ミスタードーナツの500円分の商品券(使用期限あるものだっけ)。

 

 

膨大な紙を廃棄していく中に、大昔、最も長く過ごした恋人さん(満月さんにそろそろ更新される、もしくは既にされている可能性)と1次お別れの3年後に長いお手紙をしたためた下書きの一部が出て来た。こういうのは相手に寄ってはストーカーになるという犯罪ちっくな所作ではある。この人は、まだ私のことを覚えているのだという感想で問題なかったようだが、今となってはこの世界線を歪めたのは悪手だったような気もする。結果的に添い遂げられなかったという話ではなく、再会したときには既に世界線がずれていた。

 

手紙は読んだみたいだが、手紙に書かれていた内容は全然読めなかったと言っていたし、文面として読み取れることと、自分の世界線として読めるかどうかは別もの。

 

手紙の中身は、今日記で書いているようなところと似ている。もし宛名と違う人に届いたとしたら、読んでも良いけどできれば捨ててくれるとありがたいみたいなボトルレターみたいな冒頭から。

 

誰かよりマシとか誰かより優れているみたいな世界観の人と過ごすの辞めましたという話とか書いていたなー。もちろん、これは感傷であって、この人と再会することがあっても、もはや親密な関係にはなれないのだろうなって。当時の感情は持っているが、だからといって、今後一緒に過ごせる気がしない。再会したとき、自分を省エネして自分が尽くすのでなくて、自分に尽くしてくれる人を選んだら良いんだって言っている時点で離れるべきだった。

 

僕は尽くすとか尽くされるとかの関係の輪の中で過ごすべきではないとなっていたから、既に離れた世界線を歪めてしまった観。泣きながらお別れになる。

 

 

そういえば、送別会の時に僕を泣かせるみたいな試みがあったみたいなのだが、名残惜しさが悲しみになるというのはどうも違う気がして、泣く感じにはならなかった。こういう意味で僕は薄情なのかもしれないが、自分の感傷で泣くというポーズは取れない。漫画を読みながら結構泣いている気がするが、涙は自分の為に流すものでもなしというところで、辞めてしまった。

 

涙って、それに対して感極まっているという風に自他に認識されるものだから、自分に起こった事象に泣けてくるというのはどうも違うような。

 

もちろん、自分の場所として涙を流すことを閉じないようにするのは大事。

涙を閉じると感情が乾いてしまう。

 

 

やれやれ。

 

昨日のタイトルの進撃は、「進撃の巨人」を読み進めているから。

やっと当時読んでいたところまで読み返して、僕がここで読みを止めたのもなんとなく分からんでもないなって。

 

戦争とか争いの概念には何か仕方なさが付きまとっている。それが人間の自然だ、みたいな。

僕はこの感じがどうも嫌。いや、こういう世界線もあるのは分かるし、実際外国では戦時だし。

 

僕が言っているのは、世の中の奔流がそうだとしても、そこに浸って生きる必要はないという意味合い。実際不機嫌でコントロールしたりされたりする人間関係から離れられたし、当たり前の外でも問題ないし。

 

 

進撃の巨人は最終的に主人公がヒロインに退場させられるというのは何処かで聞いたのだが、退場が幸せであるという世界観なのだろうか。あれだけ主人公の物体的な生を欲していたヒロインが最後にそんな選択になるとはどういう経緯なのだろう。気になるところ。

 

村上さんの本では幽霊が出てくるし、なかなか盛り上がっている。

 

 

結局のところ、僕は自分が傷つけてきた人達に対して仕方ないとは想えないのだろうな。かといって具体的(物理的に)に何もできないから、思い出としての呪詛でもある。当人はとっくに忘れていても。

 

まぁ、日なたで生きる為には当然、陰が付随しているという感じであって、特に日常的にここを見ていることはないのだが、お引越しで過去を整理しているとそんな気分になったというだけ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。