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今朝、キャラメルオレを作るときにふと牛乳をみたら賞味期限が3日ほど過ぎていた。あれ、普通に飲んでいたら消費できるはず。帰ってから飲まずにすぐご飯作りに入っているのと、休みの日にもあんまり飲まなくなったからか。もっと牛乳多めで作らないと。

 

本日のメインご飯は、一見酢鶏に見えるが実は味噌味で酸っぱくもないというもの。ささみを塩コショウで下味付けて片栗粉をまぶしてコーティングして炒めたあと、玉ねぎとピーマンを加えて炒めて良い感じになったら水を入れ、醤油と砂糖と味噌で味付けして弱火で煮詰める。

 

美味しい。体がアルカリ性を求めていた(知らんけど)。

梅干しも毎日1粒。

 

昨日寝る前におまけのお菓子を食べたから、随分と胃もたれしていた。

まぁ、胃もたれは常態みたいなものだから、体調不調に当たらない。朝ごはん食べずに昼休憩になる頃にはまぁまぁ収まる。食べるってある意味命がけ。

 

仕事のときは、なんとなくざわざわしていた。

なにかやらかしたかなという気分に流れる。でも、ふと内省すると、この感じっておそらく変化してはいけないと設定されているものについて動いた(動きそう)ことによる座りの悪さなのではないかという想起。虫の知らせとかはまさにここの範疇。

 

そうして、このざわざわが僕のものかどうかも実際のところは分からない。というのも、というのが本日の哲学。特に参照文献はないが。

 

人が認識できる外界よりも意識できる外界の方が狭い。階段があることは分かるからそれに合わせて動きを変えられる(意識)が、それが何段なのかは認識できても、意識はされない。

 

ここでいう認識は意識を支える有意・無為の選別を担っていると推測されるが、もっと深いところにある人間の感覚って、認識より遥かに広い。匂いとか高さに気分が悪くなるという反応が分かりやすいが、反応しないからといって感覚できていないとは限らない。これを磨けはオーラが色で判別できたり、占い師になれたりするのかもしれない。個人的には本当の占い師って、パラレルワールドを感覚できる人なのではという想像。

 

要は、反応には至らない感覚は、言語化されない感じとしてむずむず、そわそわ、ざわざわ、みたいに反応されるのではということ。脳が何らかの処理をするときは微弱な電気が流れるみたいだし、機械と相性が悪い人はそれが強いのかもしれない。脳がそうやって動いている以上、何かの電磁波に影響を受けるというのはSFでもなく当然在りうる。過敏な人はそういう誰にも説明できない領域で影響を強く受けてしまうのかもなとか。

 

なんかよく言語化できないけども、相手のことが分かるという領分も、認識の外の観察による情報なのかもしれないし、もっと内部のテレパスみたいなところなのかもしれない。言葉が発達したことによってそこに依ってしまって感覚を鈍くしたという説。だって言葉の方が楽だし、言葉で色々既定した方がしっかりした感じがあるし。

 

森博嗣さんが、自分は言葉で考えないと言っていて、分かりみと思ったのだが、図とか数式で考えていて、おそらく分かる人であれば共有できる型で考えているから、僕の思考とはちと違うのかもしれない。僕のはそもそも誰かに共有できるようにやれてない。だって自分でも分からない。楽しんでおられるというくらい。

 

 

そうして、僕のてきとーな受け答えに対して、恋人さんが「(自分は)考古学者みたいな気分」みたいなことを送ってきていただき、史実と事実の違いってなんだろうなという思索がお腹を下しながら散策する。僕の思索は言語で順を追っていくことはなく、ぶわっと塊の概念がやってきて、あと言葉で発掘するという感じ。

 

文学もある意味考古学的。テクストから意味を解読していく。史学も発掘された物体から過去を解釈してストーリーを構築する。では、事実との違いは。

 

僕が思うに、証明とか解釈不要なのが「事実」なのだろうな、という感じ。もっと言えば「今の出来事」は事実だし、過去は史実になる。この境界線もよくよく捉えようとすれば判然としない。何を「今」としているかって、それが「今」だと言われているし共有できる以外の明証性は無いと思うのだが。

 

守り人シリーズの最新作を読んでいて、ふと、領域が留まっている世界の人にとって、歴史とか言い伝えみたいな情報はこれから何が起こるかの未来予測の範疇だったのだろうなって。この場所で大きな戦いが起こったということはそういう立地だったということであって、そういった危機があるから注意を怠ってはいけないみたいな。史実と現実が一致している世界。こういう意味で捉えられば風水とかも捨てたものではないが、そんなことを気にするより開発が大事というのも分かる。平成狸合戦ぽんぽこ

 

この史実と事実の峻別は人格観にも影響を及ぼしている。

今日noteを眺めていると「自己紹介」というテーマがあった。誰もが自分のことを史実的に語れば自己紹介になると思っている。たしかに社会的な人観って、その人が今より前にどう生きてきたかを重視する傾向にある。それはそれで大事としても、外との関係を繋げる必要がないのにその語りってどうなのだろうな。自分を史実として発掘するのか。

 

個人的な読み味だと、今までどうだったかなんてどうでも良くて、「いま」どう在るかに文字数を割いてくれた方が美味しい。まぁ、来歴がなければいまの自分が存在していないのは当たり前過ぎるから、それを踏まえていまがどうなっているのかの方が伸びしろとかも分かりそうな。

 

面接官の視点になっている節。

伸びしろは未来に視点が向いてないとないような。いや、僕の目は何処に向いているか不明だけども。

 

文章が美味しければそれで良いという人でなしみたいな読み方なのだが、「知性について」でもそういう話があった。歴史上の天才の人格的な欠陥を探して粗で暖を取るような人はいかんともしがたいみたいな。こういうのってなんなのだろうな。嫉妬なのか倫理観で断罪したいのか。そもそもその倫理も当人のものさしではない訳で。

 

「最終講義」の河合さんが面白過ぎる。

コンステレーションは星座が語源で、カウンセリングで何も反応しないことによって、依頼者が自分を追求することを認める。そして追うみたいな話。人の精神には確かに傾向はあるが、傾向を把握するのはあくまで前準備でしかなくて、そこから先はきちんと相手を認める。言葉で認めるのは肯定でもない。ただ聞けるという肯定。

 

言葉と言えば、文化人類科学で「文化」の由来が「文明開化」だという話があり、なんとなく日本人って言葉の中身が空っぽでも感じで語るのかと思った。ここで言う文化って何も言っていない。何も言ってなくてもパッケージで良いということであれば何でも言える。

 

僕は人に対しては明らかに言語外で感覚している。

だって、発話的言語を自分の中でいちいち定義して中身を補充して使う人は居ない。なんとなく自分の感じが共有されるという意味合いの語用だから、感覚情報は言葉に囚われてはいけないという感じ。

読むべきところは言葉自体じゃないのだよな。

 

なんて書くと言語情報を無碍にしていると捉えられそうだが、ほんとうにそうだったら、僕はここまで毎日綴っていないという。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。