具体的なコトはともかく

 

 

 

帰り路で見上げたお月様。本日はやたらと輝いている、イカス! と思っていたら、どうやら特別な名前が付いているモードだったらしい。小さく見える満月、ウルフムーンとか。高原が小さいから輝きが増しているのか。プリズムの冠みたいなものも見えたが、次の日が晴れる徴なのか雨なのかが定かではない。

 

 

さておき。

 

まだねじがゆるみ気味。別に禁欲主義でもミニマリストでもないから問題ない。こういうのは手段が目的になっているイメージなのだが実際はどうなのだろう。身軽になったり他に回せたりした後の目的は如何。

 

今のところきちんと生きることを是としている。このきちんとは正しくではなく、芸術学にある遊びの概念。曰く、「遊びである運動は、その終わりとなるべき目標を持たない。それは絶えざる繰り返しに於いて新しくなる。」

 

ここには、遊びは無目的で無目標になりうるとも書かれていてたしかに個人的な「遊び」はそうだなぁと思う。先生(上司)は目的意識を持って生きろと言い、アウレリウスさんは「自省録」で「私は義務を行う」と書く。きちんとしている人たち。

 

でも、一般語用である「遊び」って、むしろ目的・目標がないか。アプリゲームも含めたバーチャルゲームは常に何かしらのハードルを越えていく快楽を刺激するように創られているし、鬼ごっこ、じゃんけん、麻雀とかも勝利が目的だし。

 

異性遊びという表現も、まぐわいが最終目的になっているような。

まぁ誰かの体へ侵襲すること、されることは、心に侵襲があるかどうかみたいなあいまい性が回避されていて分かり易い。圧倒的情報量。

 

だとすると、資格試験、昇進、とかの人生上のステップアップもゲームじみてくる。

 

遊びという言葉には、「しない」という意味も含まれているらしい。

遊んでないでちゃんとしろみたいな語用では、すべきことをしなくて別のことをしているということになる。

 

この、しない中でしていることと、している中でしていることに目的という似た所があるのってどうなっているのだろうな。ややこしい。していないようでしているのが一般語用上の遊びであり、ほんとには遊んでいないということなのか。

 

ほんとの遊びは新しくなるというのは、いかにも芸術的な感じ。

 

本日起きたとき自分が無防備になったような気がした。

やや気恥ずかしい。何か文章でやらかしたのかとも思ったが、外からの依拠の皮がまた1枚剥がれただけもしれない。登場人物の誰一人特定できないと思う。本人は気付くかもしれないが、間に起こったことを書いているだけだし。

 

ふわふわというか飄々というか悠々というか。

別に新しい訳でもなく、もともとの自分の感性の出し方が学習されてきている感?

 

法(ルール)の依拠できる、従わすことができるという観念はなんなのだろうとずっと思ってきたのだが、特に気にする必要はなかったのだな。

 

人が何故法律に従うかという話で、これをすると犯罪になって刑罰を受けるという判断ではなく、従うべきだからそもそもそんなこと思い付かないというのがあった。道徳的に正しいかどうかでもなく、法律が形成されたプロセスが正しいと思えるかどうか。現代で言えば、国会とか親とかか。ルールはもともと道徳に依拠されてきたものだが、いまや通じないのかもな、とか。

 

この流れで国際私法が面白い。

日本で当たり前とされている法律のルールも、世界で見れば全然違っていてどのルールで判断するかというメタ的な判断が必要になってくる。

 

法律が統制している人の行動は日常では意識されない(裁判が本筋だと思われていそうだが、法律が意識されずに日常が滞りなく過ごされるというのがこのシステムの真骨頂)。勝訴/敗訴、有罪/無罪の判定になるとゲーム染みてきて、見る分には楽しいのだろうな。

 

 

ここで、文化人類学と酔いとしらふの哲学が言う、正常/異常の観念が出てくる。

 

コロンブスは原住民を異常と評さないといけなかったし、しらふの人は酔っぱらいを異常と評したい。おそらく精神世界の中で自分を保つ為にこの区分が要るのだろうな。自分が異常であるということで場を確保する側もある。

 

当たり前を何処に依拠するかというところで、分かり易いのが大事。

 

これって、舞台/観衆の切り分けとも通じるような。

 

要は、自己観という存在を保つための最低限として、自分が正常ないし異常のどちらかに居ないといけない。生活/非生活も同じか。きちんと分けられるかどうかが何よりのこととしているような。分ければ分けるほど間が拡がる。

 

 

どうでも良いが、「オセロー」を読了した。

美味しいし痛い。愛した伴侶を陰謀で殺してしまうという物語(ざっくり)。シェイクスピアさんは、社会構造の真理を突いていたから未だに読まれるのかもなとふと思う。愛している伴侶の言い分より、外聞の方に客観性があると想えてしまう不思議。一応物証もあるが、物証の信ぴょう性も、実際自分で見ない限り定かではない。

 

噂とかゴシップの方が実際接することより信ぴょう性がありそうなのは、当人は嘘を付くかもしれないが、外の人の情報は正しいと思えることで、これこそ適応上のおかしさよな。自分の直感より、正しさらしさを信じた方が正しいと捉えられた個体が生き残ってきたのだろうが、何か変な感じ。

 

何を持って人を信じるのかという話になってくる。

生の情報量は圧倒的だが、人は生だけでもないし。

 

 

僕はなんというか、この諸々の区分けを規定値にしつつ、もっと遊ぼうかなという次第。

新しさは、昨日までの自分を正しいとはしないだけで、自分が過ごしている日常を否定する訳でもない。

 

自己肯定感も一般語用の概念ではまったくなさそうなのだが、別に肯定しなくてもされなくても良いよなという感じ。

 

まぁ、これだけ変な文章を書いていても読み続けてくれる隠れ読者がいるというのは、とても贅沢な人生。

 

勉強論も書きたかったがここまで。

 

おやすみなさい。

 

それぞれ良い人生でありますように。

 

良い夢も。