縁は無関係
自己はもっとも近い他者なのかもしれない。
晩御飯がやたらと美味しくて。まずはここから。
このご時世になる前から毎晩作っている。最初は晩酌用に自分で美味しいように作ろうという起点が、いつの間にか弁当にも拡がった。むかーしは自家製たこわさとか頑張っていたが、基本的に頑張れない人なので日常でなるべく省エネで時短を試行錯誤してゆるく続けている。
副菜は昨日作った白菜大量消費の浅漬け。おそらく今週分すべて賄えるのでは。レシピというかどう作ったか。てきとーに切った白菜を塩揉みし、20分ほど置く。握力を駆使してなるべく強めに絞ってポリ袋に詰め、鰹節、すりごま、七味、かつおだし、醤油少々、あと思い付きでごま油を投入し、揉み込む。小さいポリ袋は肉の下味にも使えるし有用アイテムである。薄味だが、香ばしい風味。
サラダはちぎるレタスが高いから、袋詰めベビーリーフと弁当用の目玉焼き半分。ドレッシングは、普段選ばないだろう縛りで買ったバジルとチーズ。美味しい。
メイン。鶏の肩肉と何を合わそうかと思いつつスーパーを徘徊していると、ミニトマトとほうれん草が安い、買い。温めたフライパンにオリーブオイルを炒め油の量より多めに入れて、キッチンばさみでこまかくきった肩肉にコショウをまぶして火を通しつつ、洗い物の続き。良き塩梅で玉ねぎ、ミニトマト、ほうれん草を加え、火を少し強めて炒める。ほうれん草がくたっとしたタイミングで水を加え、コンソメ顆粒とバターを投入。水気がある程度減るまで放置しつつ、お米を研いだりゴミ出しをしたりする。
だいたいほうれん草にはケチャップを合わせたくなる習性があるのだが、今日の味付けはこれで十分だろうと塩を少し加えるだけにした。塩はちょっとだけ良いのを使っている。食塩ではなく粗塩のカテゴリーのもの。
哲学的な思考も良いが、こういう実践的な生活も良い。
ちょうど良く食べていっぱい寝ていれば精神も自由になる。
(でも、部屋は汚い)
さておき。
冒頭の話に戻る(進む)。
発想の無軌道性を自分に赦し過ぎてびゅんびゅん飛び回る。
別に困らないが、ほんまかとはなる。
自己の他者性は昨日の、なんで自分を他人のように信頼したり(自信)好いたり(自己肯定)しないといけない、するのが良きこととされているのだろうというところから。
これって、明らかに対象と自己は別の存在になってないか。裏切られる、嫌われる自分をそう評価する人は誰なのかという素朴。実際誰なのだろう。自己意識か? なんか分裂してない? 誰がほんとの当人よ。
そういえば昨日書き忘れたが、概念そのものは表現できないが、概念の限定された側面は言葉にできる。ある視点と時間から捉えた概念。だから自分という概念を書くためには切り取らないといけない。で、それを情報として捉えると人に対する知識になる。
他者の概念もこうなってくるとこんがらがる。
自己に影響与えないよそ者という側面もあるだろうし、自分とは別の存在という視点もあるし。変更できない、影響できない人を他者と捉えたところで、自分にそういう部分があるからこその個性だし。
ところで、「争い」に「適応」が含まれるというのは別にオリジナルではない。生物の進化において単細胞生物から多細胞生物になったのは、生き残るための適応であって、人間の肉体がその先に生まれているから、意志を持たない(とされている)単純な構造を持った生物ができることが、何故高尚な存在(とされている)人間にできないだろうという不思議。
こういう総括で、人間という種の個性についての思索が起こる。
人間は脳の進化によって世界(宇宙)の移ろいを認識できるようになってしまった。この移ろいを時間と呼称することにして(タイムマシンが発明されないのはこういうこと)、自分のいまと終わりの間に余白、隙間ができた。
この隙間に人間的営みが発明された。言葉も含め、道具とか科学も客観的に在ったものではない。死という概念も発明品。
人間以外の生物は、遺伝的形質、学習、いまこの瞬間の状況という入力によって、動いていくのが一生になっているが、人間は幸か不幸か、認識できる移ろいの幅が広いから、意志とかルールとか約束が問題になる。そんなものいまにはないのに。
こういう雑多な過去と未来の知識に囲まれて、ただのいまを生きるのはとんと難しい。
ここでちょっとスピリチュアルの話。
時間で言えば、1年前から2年前の間くらいに読んだ、エックハルトトールさんの悟りの本。
いまに意識を張り巡らせることが、自分で在ることだという主張だった。
これをしていれば、邪気が入ってこないとか。病気にならないまで行くとアレだが、たしかに風邪は引かないのかも。
意識を張り巡らすって、ほんと難しい。
つねに今何を見ているのか、どう動いているのか、何を考えているのかを意識して過ごす。
ドラゴンボールで言うと、セル編で言うところのスーパーサイヤ人で力重視にすると重くなって動けない(集中)が、日常的にスーパーサイヤ人で居られるようにするみたいなやつ(よりわかりにくい)。
シンプルに言えば、過去も未来もないいまの自分で過ごし続けるということ。
こう過ごしている限り、自分がどういう人物であるという自己評価は生まれようがなく、自分を信じるとか好きもない。自分という概念もなくて良い。
自己観が強い人ほど、あるがままに人生を捉えられないと思う。
まぁ、別に捉えなくても良いと思う。ほんと。
ただ、相対的に自分を捉えなくて良くなるメリットはある。
このたどり着いた自分が社会規範の中でしか生きていないということになるとどうなのだろう。そうだとしたらまだ突き抜けていないのか。
ここにも何かの資質が要るのだろうか。
ここからは一種のフィクションとして読むと良い。
そんな奴おるわけないだろと我ながら読む自己の素朴。
そろそろ、やっぱり好きな人との現実はないだろうなと諦めようとした。
この理由が、相手が自分のことを好いてないことが確証されただったら普通なのだが、僕のロジックは、好きな人が体調不良っぽい時に隣に居られないのがしんどいだったという。
別に自分に足すとか安らうために人を好きになる訳でもないし、なんなら関係ない関係の人が好きだが、何もできないのはどうしようもない壁。
何かをできるために近くなりたいというのが僕の定義上の好き。
いや、お金もないし、何かの欲求を満足させるではなく(局面的にはできることもあるかもしれないが)、僕がしたいと思うだけ。
あんまりされたりはしたくない。
あと、少々やらかしている感はあるが、挨拶好きで、コメントしたがり。
コメントも、別に賞賛したいがためではなく(美味しいのは前提)、僕が想ったことを書きたいだけ。僕が想ったコメントを当人に読まれたいみたいな関係はない。
許容されているなら書いてみようくらいなニュアンス。
好きな人のことはほんとに好きだったのだが、世界観越境し過ぎてやり過ぎた(送り過ぎた)感はある。殿堂入りは確かだが、あんまり自然ではなかったのか。
いや、読む人である僕としては、きちんと何かが返ってきたいたような感じもあるが、これだけ空間が離れていていると、都合良く捉えているしかならない。
ボルツなんとか脳の話が科学本にあった。いまの思考は粒子の配置でしかなくて、その配置は人間の人生単位ではありえないことだが、宇宙の終わりまでの時間の幅で見ればその配置が起こることが在りえないことはないとか。
再現されうるくらいの自己観の方が楽なのかも。
おやすみなさい。
良い夢を。