障りない

 

 

こつこつ考えるのが苦手過ぎる。

 

 

自分になるのはとても難しいこと。あまりに精査してこなかったために本来の自分が無駄に何重もコーティングが施されている。しがらみを検証して剥がしていく日々。考えるのが苦手だというのも、別に他人と比べてではない。では何と比べているのだろう。昔はもっとこつこつ考えていた訳でなく。

 

お絵描きを日常に組み込もうと目論んでいる。完全に「ブルーピリオド」と「絵の言葉」の影響。レオナルドダヴィンチさんは、「絵」が最高の芸術だと言ったとか。時間の経過の物語性も一枚に組み込めるのだそう。確かに、絵画ってあんまり味わったことないが、解釈の余地が文字だけの表現よりも狭いような感じ。漫画ももちろん、写真もそうか。見て取れた物は所与のものとして読み取るしかない。音楽も、聞きとれた音は自明。

 

言語情報も言語を所与とすれば解釈の余地は少ないとも言えるが、言語は見えたり読めたりするが物そのものとはいえない。証拠として実在するためにはかつては紙媒体に印字される必要がある。今は電子媒体も。

 

お友達がお絵描きが趣味だから、組み込もうを目論んでいるとコメントしたところ、硯さんの文章と同じ、お絵描き「も」楽しいよと返答をいただいた。

 

ここで気楽になるというか、自らを発見するというか。

 

ここで書いていることを「楽しんでいる」と自覚して良い。文章を綴るのはなかなか面倒で余所行きの自分で居る必要がある、とか、何かどうしようもない衝動が起点になっているという一般論みたいなものが無駄にコーティングされていた。別に苦しい訳でもないし、何か別のことの為に書いている訳でもない。

 

「書く人だけがたどりつける所」というおそらく「読書するひとだけが、、」の著者と同じ人の本を立ち読みした。誰かに読まれたい、自分の考えを整理したいみたいな起点があるらしい、ほんまか。

 

書けば書くほど整理されない自分に辿りつく。ほんと、まさに遊んでいる。読まれるのが申し訳ないとか不思議だとかいうのも、結局は一般論から来ている訳で、僕の文章を読んでくれる=一緒に遊んでくれるのが楽しいのだろうなという解放感。

 

ただ何事もなく書き続けるというのはお友達のお絵描きと同じで、授かった贈り物みたいなものなのかということで、引き続き楽しむことにする。

 

ありがたいでも嬉しいでもなく、楽しいが良い。

 

 

無駄なコーティングは色々ある。

 

森博嗣さんの集中力の本で、どういう文脈で出てきたかは抜けているが、多数派よりも少数派の人の方が他人の気持ちを理解しようとするという話があった。個人的に今の日本にそんな括りがあるのか疑問だが、自分の属性に対して気にされない人はマジョリティなのか。こうなると価値と人格が直結しているから、切り離せなくなる。マイノリティはもともと分断されているから考えざるを得なくなる。でも、どういう属性で括っても仲間は居なくもないから、仲間内だけではマジョリティという小さな社会が形成されるのかも。

 

人を個々と捉えようとするとこんな前情報は無駄な先入観でしかない。

あるがままで捉えるためにはシンボルは排していかないと。

 

自分を好きでないといけないとか、何か良き自分で在ることが良いという風潮もネガティブ史観からの逆張りでなんともなぁという感じ。落ち込んだ自分は自分でないとするのは、バランスが悪くないか。生きているという実感を楽しさに落とし込むのは好きとか機嫌に影響されているうちはまだ早いような。

 

自己肯定についての本をちらっと立ち読んで、好きになることではなくて受容することだと書かれていて、まぁそうだなと思いすぐ閉じた。

 

受け入れることは価値と無関係。

楽にはなった。ただ、ここには相対的な指標はなく、相手が僕を使用しようとするときに鎧がないから、その為に仮のアバターというか価値を設定しておかねばと想う。残業を断れる自分とか、これはこうだよねと聞かれて、あなたにとってはそうですよねと同期しないこととか。

 

価値というモノサシで捉えればいくらでも正解はある。気分という価値、経済的価値、交換価値、むしろ価値で捉える方がとっちらかる。

 

このやたら楽しくなっている感がどこから来ているのかは不明。

ただ、アントニウスさんも「自省録」で、内側を見よ、そこには(善)の泉がある、みたいなことを書いている。たしかに素朴に考えると、どういう世界かを読んでいるのは当人の物語でしかないんよな。まず、自分に無いことは読めないし、やはり、自分になることは難しい。

 

おそらく、素朴な自分に気付けるのは自分に何にもなくなった一般論としての末期辺り。気付いたところで遅いのだが、いつだって人生は遅いとも言える。

 

「自省録」では、常に末期であるとして生きよみたいなフレーズがある。

このご時世では実際いつどうなるか分からないし、という感覚は、人類全体では悪くないことなのかも。ちゃんと自分のほんとうに向き合える。

 

どれだけ大事な人もいつ居なくなるか分からない。

この当たり前を前提に、コメントしたくなったらしておくということをしているから、別に特に返答を求めている訳ではないのでご心配なく。コメントしているということは存在に楽しんでいるということ。

 

きちんと冒頭に戻して。

 

僕は基本的に同調傾向だから、全然考えていない人が周りに居たことで、考えることを苦手にした。自身に対しての苦手意識。

 

これがなんだったのだくらいに霧が晴れてきて、思考とか試行の人生上の遊びをサボっていると自分が気付くようになった。別に誤りは良い。全て世界の正解を現実できるように人は創られてない。

 

汚いとか綺麗とかどうでも良く、いま生きている世界のみんながスキだ。

 

おやすみなさい。

 

楽しくなれますように。