ほのか

 

 

昨日の朝の光景。夜景の種明かしのように並ぶ建物と、三河湾。景色を眺めながらの朝風呂は最高だった。カナブンも一緒に入りたかったらしい。のぼせてはいけないから、早々に森に投げ返す。

 

ほんとうはこの前置きは昨日の日記に書くつもりだったのだが、文章化するために過ごしている訳でもないし、タイミングよくぽんぽん言葉にできない質。ただ、言葉に出さなくても光景は覚えている。

 

昔はこのテンポのズレをからかわれたものだが、文章界は誤差が基本だから特に咎められることもない。それに日常でも(仕事でも)あんまり気にならないし、気にしない。たくさん発話したら伝わる訳でもないし、知れるわけでもない。発話が多い人って木は森の中みたいに、ほんとうのところを紛らわせている気がしないでもない。

 

 

昨日の這う這うならぬ酔い酔いの体で書きあげた文章を読んだ満月さんが、「酔っぱらっている癖になかなかまともな文章を書く」と呟いていたのだが、そんなにきちんと書けていただろうか。それとも夢なのか。

 

僕が酔うとよく話したり書いたりするのは、酔い宵の肴くらいに食べられるべきものだとしているからなのかもしれない。もちろん僕を描写しているし、特に良いようにも書いていないつもりだが。僕の文章を読んでいる人が僕に会っても、頭の中ではあんなことを考えているのに現実で緩々だなとなるだけと思われる。ある意味この文体が創作みたいに見えそう。

 

 

さておき。

 

三河安城で昼前に即解散。こだまに乗ってゆっくり速く帰る。お腹が空いてきたからスーパーでにゅう麺とかやくご飯を買った。外に出ると2日前ここを出る時にはなかった金木犀の匂い。ちょっとした浦島太郎の気分。居ぬ間にすっかり秋になっていた。それと、隣の隙間。

 

帰って食べてごろごろひと眠りし、昨日の運試しの燻りを解消しようとしたら発火する前に撃沈。まぁしたいことをさせているから良い。エヴァンゲリオンは空いてなかったからうしおととらにしたのだが、勝ち負けはともかく物語成分が補給されて面白い。

 

歩いて20分程の運試し場に向かう前に、古書店に寄ってみた。わんさかうずうずしている模様。村上龍のなんとかとファシズムがあれば即買いだったのだが、とりあえず保留。そろろそろ無知の塔も刷新時期に来ている。法律学がじんわり恋しい。俳句学ってあるのだろうか、人間はなんでも学問できる存在だからある気もする。

 

金木犀 匂いあれど 花はなし

存在観は物体で感知できるものとは限らない。寂しさも匂いと似ているのかも。余白に香る。

 

 

やれやれ。

 

そうして二日ぶりの無知の塔の世界。

面白い。数学は全然読めない分野。複素数を空間として捉えるには修練が足りない。三角関数空間も出てくるし。なんだか、何周読んでも入ってこない本のセレクションな感じ。読めた本は既知の書庫に移動する。知識として覚えているというか、世界観が見えたというか光景としての把握。

 

一次情報である古典の本は、時代の色眼鏡が無くて透明に読める。

哲学界隈だと批判が応酬されまくっているのだが、敬意をもっている感じがあるし。頭ごなしではなく、きちんと読んでから。こういう敬意は社会にはあまりない気がする。

 

小説も10冊くらい並行して読んでいる。僕はあんまり集中して読める質ではなかったらしい。というか、1冊に集中すると、その世界に入り込んでしまう感じ。これはこれで良いのだが、時計時間を忘れるのは困る。

 

村上龍さんのmissingは世にも奇妙な物語ちっくというか、人の認識をテーマにしている模様。自分の体感に証拠を求めないといけないという無意識を浮き彫りにしているというか、ここに限定すると人の存在がとてもあやふやになるというか。世界が平板に見える人ってこういうところに生きているのだろうなとか。

 

村上春樹さんのアンダーグラウンドも被害者が具体的にコメントしているにも関わらず、人が平板に見える。具体的に語られれば語られるほど、自分とは接続されない固になる。

 

人間とは人との関係の中に生きるものだというのはmissingのお父さんが言ったことだが、関係の中に居たとしても結局人は固有の存在であって、個人が相手と関係しているという連鎖でしかないという暫定的認識。

 

マラルメさんじゃなかった。バタイユさんの内的体験で、人の現存性は認識そのものだと言うフレーズ。腑に落ちる。認識の外に何かがあったとしても、それはその人の存在には含まれていない。

 

文章を書くことは世界との接続だという考え方、とても好き。

noteでちょくちょく見かけていた人でさっきフォローした。

 

表現物が世界と繋がる手段であるのは分かりやすい。

表現界で存在として認識されたいという欲求の前に、文字通り現に表すことによって繋がりができる。生身の自分とは連動しない接続。

 

そういえば、メタバースでも、次世代の人はVRナチュラルになって、従来の肉体に1つのキャラクターではなく、あるところでは美少女になったりあるところではイケメンになったり、肉体を換装できるようになるのではという構想があった。ガンダムにそういう話は既にあったと思うが、個人的に気になるのが、こうなったときのアイデンティティってどうなるのだろう。何をもって自分を自分として認知するかはともかく、他人はどうするのだろう。バーチャルの情報はいくらでも脚色できるし。この辺りになると、物体として把握されることにはあまり意味がなくなっているのかもしれない。

 

この技術が世界を更新するかとなると、あまり変わらないと思う。

だって、相手にとって自分が良く見えるように脚色するのはいまだって当たり前だし、キャラの使い分けも然り。自分も他人も固有であるという情報量を受け入れる器がない。いや、器が無いことも含めて固有だから、僕は人を馬鹿にできない。

 

満月さん曰く、煽ったり馬鹿にしたりすることが多いとのことだが、それは僕がしているとというより、自分の中で反射しているだけなような。他人の言葉で傷付いたり怒ったりすることって、結局自分がその言葉を痛いとしているだけなような。言葉で人は殺せないが、自殺させることはできるくらいの殺傷力はある。

 

僕は繋がっているという一体感よりも、僕と相手が固有であっても一緒に居られるという感じが良い。趣味とか嗜好が違っても問題ないみたいな。

 

満月さんは僕の来歴をとても気にしてくれる。どうやら僕には8人の元恋人さんが居るらしい。酔っぱらっている時にそう話したのだとかなんとか。この体感則によって扱いが上手くなっていると想像されているが、そんなことはない。初めての時に初めてじゃないでしょうって言われたし、ここは積み上がらない固有のそれぞれの人。皆幸せになってくれているに違いない。

 

幸せの定義もよく分からないけど。

 

僕の最長記録は1年少々なのだが、これってなんだろうと思うと、僕がまだ僕でなかったというのがまず1つ。固有の基準で相手と接していなかった。もう1つは、相手が僕に理想の世界線を押し付けていた節。いや、ここはなんだか申し訳なかった。あの時は引きずりながら付き合っていましたし。

 

僕は顔色を伺える人。伺わないといけない母親が居たから、人の感情的な機微は見える。その機微と自分のどちらを優先すべきかとなると、あくまで前者になる。過去の人達の中には僕の後者を捉えていた人が居て、すまんかった。

 

随分と自分になってきた自分。

僕は基本的にサイコパスだし、自分に返ってくるべくない気遣いを勝手にしてしまう人だった。その人となにかなりたいと無関係。

 

満月さんは時々卑屈になるのだが、僕の行動的存在がちょうど良いらしい。

人が泣いていたら普通は慰めるという因果を僕はしない。立ち直る人だからぽえーと構わずに待つ。ここを薄情と捉えるか、きちんと自分が認識されているのと解釈するかは人格によりけり。構って欲しい泣き言には付き合わない。自分と闘っているのであれば静観して勝ったら拍手。

 

僕も今の自分に対して拍手しておこう。

パチパチパチパチ。良く生き延びて自分に成りえたものだ。

 

おしまい。

 

今日は良く寝て明日も遊んでくる。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。