物理法則の外

 

 

 

誰がモデルか定かでない誰かの頭を撫でる夢。人とスキンシップができるようになってからそういえばこれが好きだった。理由を考察するに、存在を包んで肯定する行為のようだからなのだろうな。そうすると実は直に触れなくてもできることなのかもしれない。

 

 

 

健康体が捗ってどこかに行きたい気分。何処かの自然の中でぼーっとしたい。美術館で芸術を眺めたい。あと、無性に焼肉(牛肉)が食べたくなった。自覚的にご馳走というイメージもない(後で胃がもたれるから)のだが、魂の衝動には従っておこうと、スーパーで牛肉を買ってきて、塩コショウとポン酢で味を付け、新玉ねぎと一緒に炒めた。一致するものはほんと美味しい。

 

こうやって小さい衝動にきちんと応えていけば、そのうち何かもっと大きな衝動にもたどり着けるかもしれない。なくても良いが。

 

帰り道、前に2人組の女性が歩いていた。なかなか歩くのが早い。追い抜くとき何か話している。ちょっと注意を向けるとしりとりをしていた。「砂ずり、りんごパイ、イカリング」まで聞き取れた。りんごパイはアップルパイなのでは、いや、楽しそうで何より。

 

 

高次元の記事を読んで想ったこと。

 

食べ物味わうときには自分の感覚全部で味わうという話があった。そうだとしても別に食べ物に限定する必要はないよなぁって。何事も全部で味わえるし、余すことなく使えるのは「読むこと」。今まで積んできた自分という感覚を含めれば数えきれない感覚器官をもって対象を捉えることができる。

 

あと、「愛」と「感謝」は等しく高次の感情だというような話。これも素朴では腑に落ちるのだが、何故そうなるのかということを思索してみる。結論からすると、交換の法則を越えることができるからだろうなという説に至った。

 

交換の観念がなんとなく狭いなと感じていて、これがどこから来ているのかという疑問がずっと頭にあったのだが、物理学の一般書と人類学を読んでいてなんとなくピンときた。これって、三次元の物理世界の現象をモデルとしているのだろうなと。作用反作用の法則とかエネルギー保存の法則からすると、何かをするにはエネルギーが必要で、そのエネルギーを補償する反作用が返ってくるべき、みたいな。物々交換が生まれた頃に物理学がそこまで発展していたとは思わないが、むしろ現実の素朴を説明できるようにしようとしたのが物理学だし、どちらが先でも構わない。

 

別に三次元の現象界が悪いと言っているのではなくここだけで人間は生きていないというだけ。

 

で、愛と感謝は交換的な感情でも起こりうる。ただ、それだけではないところでもありうるしあって良いもの。分かり易いところだと、太陽は満遍なく世界に降り注いでいるが、自分だけの恩恵でなくても、このぽかぽかに感謝して良い。愛だって一定の関係の中にだけ存在するものとしなくても良いという自由がある。感謝とか愛とかいちいち名前を付けなくてもそれによって「嬉しくなる」ということが本質だと思われる。

 

これらは三次元の現象界の枠組みから離れうるという意味で高次と言われるのだろうなという次第。僕は人間自体が三次元に生きていないとしているから、別にこういう高尚な感情だけが枠組みを越えられるものとはしていないけど、関係からも現象からも手放しで世界を捉えてみるというのは気楽になれるとは想う。

 

人間の肉体が持っている感覚器官って、他の生物と比べて特に優れているものって無いよなということを考える。嗅覚は何万倍とかの生物が身近に居るし、他の五感もより優れている生物が居るだろうし。手が器用というのは人類の研鑽の結果であってもともとのものではないし。

 

脳は感覚器官そのものではなく統合する器官。これが人間であることの醍醐味なのでは。

だとすると、外から持ってきた社会性を枠に生きるのではなく、きちんと人間になることを追求した方が良いような気がしている。

 

 

個人的な感覚しか書いてないが、なんとなく生き直している感じがある。今まで当たり前だとしていたことの中に、外付けのものがこびり付いていて、ほんとの感覚とは何ぞやということを再点検。

 

対個人では相対性を気にしたことがなかったとか。むしろ相対性を決めてきたのはその外のよく知らない人達。でも、内側の時には外を参照してはいけないから、難しい。

 

 

うーむ。

 

対個人をきちんと人として見るということは、相手の味方にはなれないということ。

存在的に頭を撫でることはできても、見ている世界の景色は違う。それでも良いという部分と景色を共有したいという部分と。

 

結局、僕の素朴は何も考えていないように想う。だからものさしを諸々収集する必要があった。ただ、考えていなくても存在はしていて良い。思うゆえに我ありなんて規定もなく、ただ、我あり。考えなくても運動とか意識はしているし。なにより世界を読み取っている。

 

人の存在を平等とかでてきとーに括らず尊重していけばいくほど、それぞれに宇宙が存在していることになるから、最終的に異星人間の交流のようになる。

 

でも、人の関わりの本質ってここなのか。

だからタイミングが限定されていて、人と関わるのが嬉しい。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。