洗いざらい

 

 

 

休みの日に二度寝するのはもったいない。

 

 

ということで、散歩がてらコンビニへ。サラダ巻きと小さいカップラーメン(塩)、ヨーグルト、ドトールのカフェラテ、ハーゲンダッツのキャラメルを買った。キャラメル自体ではなくキャラメル味の物をやたらと食べていたことがある。回帰。

 

そのあと結局少し寝て、髪を切りに行く前に電車で2駅の本屋に行った。コートがもう暑い陽気だから、なかなか人が多い。特に人酔いもしなかった。前に女の子の方が背の高いカップルが歩いている(良き光景)。女の子が「モノレール乗るの楽しみ!」と言っているのが聞こえてほっこり。楽しんでおいで。と、何目線か分からないところで想う。

 

本屋では夫婦らしきカップルの会話が聞こえてくる。「(女性)買って読んでない本がたくさんある」「(男性)買って満足したらあかんで」。旦那さんの方は本を読まない人なのだろうか。読んでいても即席消費物として読んでいるのか。

 

気になって買って読めていない本は、置いておくと熟成されてより美味しくなるのに。本を物と捉えればただの場所取りになるが、本は「もの」である。物より人に近い。

 

そうして、統計学の入門書と、Pythonクローリング&スクレイピング(データ収集・解析のための実践開発ガイド)を購入。ほんとはもう1冊日本語の言語学っぽい本がお目当てだったのだが、平凡社という名前の割に全然置いてない。古書店にもなかったし。まぁ、いずれ縁があるだろうなという感じはある。待つ時間もデートのうち(笑)。

 

あ、レジで、太宰治人間失格を探しているというご老人がいらっしゃった。

うちにもあるが、何文庫だったか。新潮文庫のイメージ。この本も好き。

 

戻って来て、理容院に行く道中、5次元のもう1つ、好きな人(愛する人だったか)を独占しようとしないだったなと思い出す。たしかに自分の存在の確立って他人に独占されないところにあるし、所有しようとするのは尊重してないような感じがあるなぁとこれを読む前から感じていた。同じ時間を共有したから近さを感じるのもどうなのだろう。

 

と、考えているうちにたどり着く。

顔を拭くタオルを店員さんに返すとき、拭いた面をたたんで渡すのだが、そのままぐちゃっと返す人も多そうだな。あれ、女性は化粧しているからこういう段階はなかろう、理容師さんが髪洗うときも凄く神経使いそう(だから女性料金の方が高い?)、とか諸々の思索が浮かんでは沈む。

 

一頻りゲームの話をする。同年代だし(やや相手が年下)、やってきたゲームも近い。曰く、スーパーファミコンのソフトを洗ってみたら54本とか。良い時代だった。ゲームの世界で生きるのであればモンハンが良いらしい。モンハンは知らないが、たぶん因果が分かり易いのだろうなと想像。やった分だけ返ってくる、みたいな。

 

帰り道、ゲームとか漫画のオタクの話にも合わせられるが、学問オタクでもあるし、なんなら、この世界そのものに対してオタク傾向があるなぁと想った。こんな精神性、誰かに拓かれて顕われるはずがない。

 

どこかに出かける気分だったから、セットしてもらった。せっかく春仕様でやたらと軽めにしてもらって(毛量が半端ない)、前髪も上げてもらったのだが、家で二次元を散策することになった。昼ご飯も何か買おうとおもっていたら、元気だから残り物チャーハンでも作ろうかという気分になり、帰った勢いで洗濯機を回しながら作った。

 

小松菜1本、ブロッコリーの芯、人参の切れ端、生ハム1パック。卵は加えず。こういう名前付くべくもない料理を作れるのが生活上の調理スキルよな。自分で作ると胃ももたれない。

 

ゼノギアスという名作ゲームの実況を見ながら、Webクローリングをちまちま進めていた。買った本がMacのOSメインだったから、環境を調える段階。仮想マシンとかよく分からないが、コマンドプロンプトの扱いとかも馴れておいた方が良いのだろうなと(何の為とかはない)。まだPythonで動かすところまでいけてないが、徐々に。

 

例えば、法律の条文の中である単語も一挙に検索できるのだろうなという想像。Excelのマクロも気になるし。統計学の入門書も面白い。数学世界は何か問題を解くというより、世界自体の仕組みが面白いと思う。

 

 

さておき。

 

インターネットに居る人がインターネットに居ないとき、現実を楽しんでいればいいなって想う。

 

ニコニコ動画のゲーム実況で声とか教養とかが好きだった人が3年前くらいにパタリと更新がされなくなって、現実に傾注しているのであれば良いなって。もしくは現実に承認してくれる人が現われたのか。

 

僕はあんまりインターネットと現実を分けていないから、読んでいれば現実ともほぼほぼ一致しているが、普通はインターネットに現れる人物像は現実の当人と多かれ少なかれズレているみたい。労力が気にされないとか普通の関係であればありえない見解が出てきたり。テレビの延長みたいなメディアの膜なのだろうか。

 

まぁ、膜がないと上手く自他が見えないというのはありそう。

 

発信されている情報はひとりでに出てきている訳ではなく、発している具体的な個人が在るのに。まぁお互い様もあるのか。

 

なんでも良いけど、現実が楽しいからインターネット離れになっていますようにと勝手に祈る。

 

 

やれやれ。

 

哲学少女に、「硯さんは、いつから硯さんになったのですか、もともとですか、何かを経たからですか」と問われた。

 

僕がすっきり自分に気付いたのは去年の試験に落ちたときなのだが、これは気付きであって、拡張ではない。

 

もちろん、色んな人との出逢いで啓示があったし、色々見識が拡張した気分になったこともあった。でも、この拡張って、経験則の範疇であって、これだけではいまの僕には辿りつけてない。啓示の方の人達は、僕が僕で在って良いというメッセージを発してくれていて、経験則を拭う方向を示唆していた。

 

別に魂とかの話ではなく、何にも依拠しない自分がどこに在るのかということ。

 

 

 

休みの日に二度寝するのはもったいないという観念は、どこかで誰かから収集したこともありうる。

 

ただ、この日々に疲労しない感覚とか、経験則とは離れた感覚に馴染めるとか、世界も人も自分にとって有用かどうかを問題にしないという素朴は誰かに倣ったものはなくて、人生何周目か説が産まれてくる。

 

この僕から見ると自分は何にも欠損してないし、誰も欠損することがない。

人はそんなにやわな存在ではない。

 

海辺のカフカで、カフカ少年が相手が自分に好感を持っていることが分かるという表現がある。こういうのって割に当たり前の感覚だと思うのだが、自分、自分だったら、相手を意識するという限定解除がないと無いのかもしれない。

 

言葉で賞賛されることと、ほんとに好感があるかの違いは明らか。

あまりにあんまり人ってそういうところで生きていない。

 

自分の原初を遡っていくと、お祖父ちゃんが何か永久機関を研究していたエピソードがある。一般人なのだが何か金属を組み合わせて創っていた。あれってまだどこかに残っているのだろうか。

 

あの辺りから世界について思索している訳でもないつもりだが、素朴が無色なところにあったような気がしないでもない。

 

相手を想うときに、自分と同じ世界線上で考えている訳でもないし、だから同情するなんておこがましい。可愛そうって、相手を下として認識してないと起こらない感情だし。この人が気になるが、その人を独占したいという意味で好きだと捉えられるのは分かるしそういうものだとしてきたが、全然違った。

 

啓示は必ずしも人でないといけない訳でもない。

 

最後に「性愛と資本主義」で、愛することで他人の情報が増えるし近くなって「理解した」という充足が増える半面、連動して相手が自分の期待を裏切るという不安も増えていくとのこと。

 

これって理解の解釈がおかしい気がする。理解って人物像を所有することではなくて、より分からないことが増えていくという楽しみ。これで人と関係できたら不安は起こらないのではと、次にお付き合いする人とこういう関係を構築することを目論んでいる。

 

できれば宵顔さんが良いのだが、そんな世界線はきっとない。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。