解脱

 

選ばない人だから、選ばれない。

 

 

何か世界との距離感が今までと違う感じがある。なんだろう、いつも見ているようなものが目に入らない割に、いつもは見えないようなものを観ているし、体と世界の距離感も微妙におかしい。転んだことによって何か組成が変わったのだろうか。

 

とか言っていると認知機能がおかしくなったと読まれそうだが、普通に仕事もこなしたし本も読めたし先程もプログラムを1つ模写したし、頭痛がするとかではない。動作に対する違和は、おそらくちくちくする痛みで都度意識化されるからいつもの動作が変な感じになっているだけだからこちらは問題ない。

 

物事との距離感も変な感じではあるのだが、これは今までよりもぴったりくる感がある。目に入るもののうち、より本質を捉えるようになって、余計な(重みを付けなくて良い)ものが内部まで入ってこない。さらにとても静か。まぁ、バイオリズムという説もある。

 

 

ピンクの絨毯は昨日の3倍くらい拡がっていた。まだ田んぼ全体の数パーセントくらいだが。土筆ってもう終わったのだっけ、これからだっけ。今年は季節より中に移り変わりがあって、季節感に同期していないよう。

 

仕事では同期が心配だと呑み会で提言したら、対策してくれてほっこり。そんなに覚える余力がなさそうなのだから、僕みたいにせずにもっと周りを頼れば良き。できないフリしてサボタージュしている訳でもなし。あとは、上司がパンクしそうならある分野の仕事少しは回してくれも良いですよって言おうかなというところもある。時間制の仕事だから量が増えるということもないし、余力を配分させて上司がパンクしないように。

 

仕事中にふと、人間の種類についての思索。性格とか属性の分類法は使わない。言うなら性質とか意志みたいな話。上司がある顧客は1から10まで何回も説明しないといけないと愚痴っていたところから。たしかに相手の話を聞くことができる人であれば、学習以前の勘のようなものが働いて、とすると今度はこうすれば良いのですよねとなる。はず。

 

これを人の話を聞けるかどうかで分けるのは正確ではない。聞いているようで勘がその場だけという人も居る。次に繋がるかというのも別に記憶力の話ではない。むしろ情報を保持しようとするとうまくない。

 

そこで、「物事を解きほぐす性質・意志」があるかどうかという分類法を思い付く。プログラムの写経をしていて、()と{}と[]が分けて記述されている。この違いは何なんだと想うのだが、そういうこと。これをすぐに聞いて解決しようとすると、解きほぐせずに情報にしかならないから保持も大変。

 

この解きほぐすかどうかというのは、学習でどうにかなるものでもない。学習段階では解きほぐすよりもまずは一定のデータ量を保持することが大事で、これが記憶力とか成績になる。人の話を聞きなさいという教えみたいなものも、結局はデータとして保持して吐き出す(行動化)しなさいということであり、本当にその具体的な相手の話を聞くことは問題とされていないだろうし。写経が修行の方法としてあるのは、ひたすらなぞって自分の中でそれが解きほぐされる過程を意識するということなのかも。とても理に適っていると想う。

 

情報から情報でないものを読み取るのっておそらく悪と分類される所作。ただ、ここで言う元情報でないものって、情報から読み取ったものではなく、例えば単語に反応する自分の歴史とか条件反射であって、情報から読み取られたものではない。だから、よろしくない。

 

まぁ自分という読み取りのツールから完全に無私になることなぞ不可能だが、人を含めた物事を解きほぐすのは、精神的な胃袋みたいなものが物を言う。物事を情報(物)的にしか捉えられないのは、データが足りないのではなくて、むしろデータが多すぎて満腹状態だからそれ以上入らなくなっている。

 

基本的にデータがぱんぱんな人が多いから、きちんとした聞き役が重宝されるのだろうな。

まぁだからとて、聞き役が選ばれるかというとそうでもない。情報としての自己主張がないと、たぶん対等にはならず。

 

物事に対して興味があるのであれば、必然的に解きほぐす方に向かう。

ということは、人に興味がない人が世の中には多そうという想定が浮かぶ。自分には興味あるのかな。自分を情報として捉えていたらそれだけぱんぱんで余白はなさげ。

 

情報から非情報(感じ)を捉えるのは詩人の意識法だとすれば、僕も詩人の一種かも知れない。なんて。

 

最後に本の話。

 

海辺のカフカ」の登場自分は基本的に良い人なのだが、何か虚ろな感じがある。人間っぽいホシノ青年もナカタさんの話を真に受けてしまう。人の話をとりあえず信じるというのは僕の性質でもあって、僕もなかなか虚ろに見えそうな人種なのだろうなとか。存在感はあったとしても現実感はない、みたいな。

 

高次元の記事での世界線の断続的分岐という話もなんとなく実感として分かるし、ちょっと現実的なところで、「政府は要らないと気付く」というタイトルと、最近日本の裁判界隈での夫婦別姓の裁判との共時性

 

氏名とアイデンティティの連関ってほとんどないなぁって。価値観はそれぞれだが、わざわざ公的認められるために費用かけて負け戦を挑むって何か意図があるのだろうかとか。内側で大事な人1人が呼んでくれれば充分では。むしろそこを気にすることが家制度の精神性が居座っているというか、どういう精神性か実感としては見えない。社会的な価値観としては当然分かる。多様性が流行ですし。

 

まぁ、真面目な話、婚姻のような社会制度自体を問う裁判って、国会に法律を制定することを促すことにしかならないから、選挙運動として少しは意味がありそう。

 

ドライに見ているというより、フラットに見たときにアイデンティティを何故外からの認証に求めなきゃならないのだろうというものさしが、演劇っぽいなと思うだけ。好きにすれば良いが、本質とは遠いような。

 

はい、何やら口が悪くなってきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。