初めての靴は足に馴染じまずやや靴擦れ。ただ、軽い。自然と小走りになる。光沢が値段相応なのだが、対面接客業ではないし、問題ない。私生活の方でも靴を買ってずんずん歩きたくなってくる。
本日は寒いくらいだったが、風が無くて日向であれば暖かいのは、春らしい。
もはや時節も(場所も)あんまり気にならないのだが、巡っている。
昨日日記を書いている最中に揺れたものだから、職場の席に座っていてもなんだかちょくちょく揺れている気がした。体感が凄く後を引く体。USJのハリウッドなんちゃらの浮遊感、もう15年程前だが、未だに体感として再現できる。当時一緒に乗った人に怖がり過ぎだと言われたが、きちんと生で生きているだけである。
「海辺のカフカ」を読んでいて、自分の性質ってやはりズレているなと思う次第。
この時代、好きなことをしているから楽しいみたいなキラキラした感じの文章を見かける。さっきもたまたま目に入った。でも、キラキラしていない部分はどうなっているのだろうという方が気になる。僕が言う楽しさは、そういうのとは違うから、同じことをしていても話が合いそうにない。実感みたいなものの為に生きてはいないし。
話が合わないといえば、僕は歴史上随分と「天然」と評されてきた。今となってここまで情報を積んでくると、この天然性はどれだけ経験を積んだところで拭われない本質めいた部分。伝聞形式の当たり前よりも自分の感覚で生きていた。
無知を装うということでもなく、勉強はできていてもなんかオカシイ奴という評。
このおかしさがどこにあるのかもなんとなく把握した今日この頃。
昨日の、人生における必然=舞台装置の話。
これを本日思索してみていると、なにやら「運命論」と近そうに読めなくもないなと思った。ただ、運命論は、人生が既定であるという受動的な捉え方で、舞台装置論だと、それによって自分の演じ方がどう変わったかという解釈の話になる。
どちらにせよ、人生上の未来の配置は決められないから、これをどう扱うかという世界観でしかない。中間形態である普通の人生論だと、何によって決まるとされているのだろう。
サイコロみたいな感じだろうか。
天気とか時世に一喜一憂するのはそういう世界観に見受けられる。
主観的世界って、こういう受動的な世界観ではない。
好きなことをしているから楽しいというのもなんだか受動的。
舞台装置というのは、人生劇場における解釈のこと。
原文から引くと、ここにはモラルもロジックもないから、外から決められるものではない、純粋な舞台における機能。
自分にとって相手がどういう人柄であったかということと、自分の人生上においてその人がどういう機能だったのかということは、微妙に違う。
解釈って、日常の生活ではほとんど遣われない言葉。
法律学だとほとんどこれに終始する。この文言はどういう意味なのかというというのを模索する。
人文学系ではある。美学とか文学で言語圏が違う人の言葉を解釈するし。
解釈の意味は、意味を明らかにすること。
これは自分の中で納得できるとかではないし、一定のものさし(自分とは離れた)を基準として判断することではない。
とりあえず暫定的には、
もう良いか、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。