けしき

 

 

仕組みとか起こりを追求するよりも運用を考えるのが効率的。お金も法も。分かったところで世界の景色が変わるだけであって訳には立たない。ただの食指の方向性。でも、僕は世界の景色こそが人生劇場の醍醐味としている。

 

 

さておき。

 

何か今日はテンションが高い気がする。今週はおそらく土曜日も出勤だし、まだ木曜日だし、公私で失敗めいたことを起こすし、特に良いことが起こった訳でもない。

 

まぁ楽しんでいるであれば仕方ない。これも景色の変化。

 

昨夜、長く過ごした恋人さんの話をしていたからだろう、夢に当人が出てきた。

懐かしいとか寂しいという感情は起こらず、僕の失敗を顕在化するために出てきたのだろうなという解釈。なんというか、僕はこの人を救いたかった。でも、人は他人に救われるような存在ではない。人を救うのはあくまで当人。何かを相手に対してしたいとかという行動とは別の概念。

 

何が良くなかったのだろうなと思って当時のやり取りを想起する。

3年越しくらいで再会したとき、彼女は当時の当時、僕に奉仕するようにしていたから駄目だったから、自分にとって奉仕するような存在を求めるべきだというような方針を語る。教訓だったのだろうな。僕も曇りに曇っていた時期だったから、自縄自縛で身動き取れなかった。

 

で、同じ事象を経験した僕の教訓はちと違って、言葉はあてにならないなというところであった。世界線の分岐の構想はまだ芽のようなものだったが、あるべきように収まるみたいな感覚はあったように想われる。

 

世界線を無理に変更させると碌なことにならないと学習された。

いまはまた違うけど。

 

これでテンションが上がるはずがないが、なんというか刷新している向きはある。

 

 

そうして、本日もぎりぎりまで寝る。起きて気付く失敗。米を研いだのに、予約ボタンを押してなかった。焦りはないが、炊飯器には焦ってもらう。早炊きを素早く押す。間に合わなければ梅干しおにぎりを買えば良いし、そこまで自炊にこだわっていない。安全の中のスリルを楽しむ。

 

結局身支度整えて、ぎりぎりの出発時間から3分オーバー、炊飯器はあと1分を示していたのを無理やり止めてよそう。吸水時間が十分だからいつもより固めの美味しいご飯になった。

 

仕事では怒られ案件。あんまり引っ張らずに聞いたらええと窘められた程度だが、なんだか面白かった。もう1つは、役割をいただく案件。理詰めの統計的集計は苦手ではあるのだが、日ごろの読書の効用が出てきているのかもしれない。でも結局集計したデータをどう扱うかが経営のような気もする。

 

冒頭と同じで、見通しとか省エネになる為の道具だから、その制度自体を気にするより、それをどう扱うかを思考した方が経済的。

 

誰かの古典の幸福論(このタイトルで書いている作者いっぱいる)で、水車を使って農業を営む農夫が水車の仕組みが気になって農作がおろそかになるのは本末転倒だという話が出てくる。僕はここでいうところでは農作しながら水車の仕組みを考える人なのであてはまらないけれども。

 

現実の生活はこなしつつ、余白を作ってせっせと本を読んで言葉を綴る。余白の中で生きることが生の実感とも解釈していない。

 

昨日の勤労の義務の続きを読んだ。ベーシックインカムの否定論は、憲法学者とか労働法学者から出てきているみたい。法的な枠組みから考えれば、というか、これって働かざる者食うべからずと同じで、根っこには労働は崇高だという宗教観があるような。アリとキリギリスの童話の世界観。

 

もちろん、財源をどうするのかという経済的な観点もあるけれど、ここで語られているのはその前の話であって、政策論の手前。例えば法人税で徴収している財源を個人に分配するというベーシックインカムとか。てきとーな素人見解だが、それができるのであれば、した方が国民の財産状態は公平になるし、時間も増える。

 

法人の利潤は労働者があくせく働いているから成り立っているのであって、サイクルが滞る。でもAIができることは人に代わって良い、とか考えていくと泥沼になりそうだから強制終了。

 

僕も何も知らない。

 

でも、知らずに生きていけるというのは、先人の英知の結晶みたいなものだから、肩に乗って自分がしたいことに傾注すれば良いような。

 

 

そういえば、そろそろ演劇成分を注入したいところ。

 

演劇が何故面白いのかの言語化がでてきた。演劇って実生活とは別の世界だから、まずもって、演じられているあるがままを見るしかない。解釈はそのあと勝手にやってくる。演劇に馴れた人は解釈も同時に起こるようになるかもしれないが、これだと実生活の世界とあまり変わらない。

 

見える像と解釈のタイムラグを楽しむのが創作物全般の醍醐味だと思うのだが、人の感想文とか劇評って、ここに一致があるような感じ。漫画の感想とかもだいたいそう。あくまで自分の世界の枠組みで解釈が語られる。

 

ここで別分野を出せるのが散文の醍醐味。統計学の本で、人はそれらしい解釈を1つ見つけたら、それ以上異説を追求しない傾向があるという話があった。例示ではある野球チームがホームゲームで勝率が高いのは声援が多くて元気づけられるからだという解釈。いやいや、ホームゲームは後攻であって、後攻が得意なチームであるという解釈もあるよと。

 

解釈ってきっと世界観そのものっぽいが、こんなのいくらでも変更される。

天才脳の本で、記憶は物質的なデータではなく、新規の情報によっていくらでも可変する動的なものだという話があり、その通りと思った。アイデンティティになるとか書かれていて、おいおい予言かよと思いつつ。笑

 

解釈は1つの辻褄合わせだが、他の解釈を排除するようなものではない。

劇評だと紙面の都合で、最もそのときの感じにそぐうものを書くしかないのだが、何に焦点を当てるかによって景色はいくらでも変わる。これは過去の解釈でも同じこと。

 

そうして、「香君」の感想文。

 

獣の奏者エリン」と同じことを書いている感じ。伝承で伝わってきた訓示を蔑ろにすることによって起こる惨劇。エリンでは対象は獣だったが、今回は植物。もちろん、物語は面白く読んでいる。

 

物語については「世界の終わりまで」が考えている。物語の効用は、他の世界に移動できることみたいな。移動は逃避ではない。

 

物語によって人は人の内部に入れるというのは分かる。ここで言うと、国語の教科書に載せるべき小説は、文豪の結晶化した物語よりライトノベルの方が良いような。当時、森鴎外さんとか高尚過ぎて分からなかった。今もそんなに好きな作家でもないけれど。

 

自分の解釈の中を足せることばかり採り入れていると、人はぷくぷくするよな、という感想。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い舞台を。