じかんとくうかん

 

 

所在なさげな心に体が追い付く。従来は心が浮いても体に引き戻されるのが常。体の方が重いしいちいち無尽に動く心には合わせていられないのが現実だから。体に比重があると心が軽い状態は稀有になる。何か動きがあるときにそうなるのが多いだろうが、動きとはもはや連動していない。

 

ネガティブな人が陽の者になれば良いとは思わないが、ネガティブさは明らかに体からの刻印であって、人生という道のりにおける荷物だ。しかも他人に持ってもらうこともできない。持たれる(凭れる)気分になることがあったとしても、それは複製された荷物であって、誰かが自分と同じ荷物を別に持つという状態になる。荷物を降ろすかどうかは自分で決めるしかない。

 

海辺のカフカ」を読み終わったところでふと浮かんだ言葉群。

 

境界が曖昧になる物語だと思う。

 

本日はこのまま現実生活のことは省略しようか。

ピンクの絨毯(田んぼの蓮華草)が拡がる速さはある意味非現実だし。去年見たより綺麗に見えるのも非現実。この「より」は時間性のことではない。

 

ともあれ。

 

海辺のカフカの終盤の、入り口の石を通った後に辿りつく「自分の為の場所」は、「世界の終わり」の村に似ている。人が静かに場に溶け込んでいる。自分が損なわれない(と思える)完璧に閉じた世界。

 

僕の日記について、毎日同じことばかり書いているようだと評した人が居たが、村上さんの物語もほとんど根っこは同じところにある。井戸(イド?)と現実には得体の知れない「悪意」があることとか。いや、兵隊さんが言っていた。「ことばで説明できないことは言葉にしない方が良い」。

 

個人的な、「自分の場所」という原風景は人によりけり。個人的にこの物語にあった「本のない図書館」がとてもしっくりする。森も当然ある。ただ、僕の中に収納されてきた物語は僕の場所の中では本のカタチを保っていないし、なんとなく、言葉から分解された「もの」として偏在している。手触りがある空気みたいな。折に触れて言葉で叙述できるようになる。昨日の有川さんみたいに。

 

ただ、これは記憶とは解釈が違う。記憶は自分の場所の中では物でありモニュメントだから経年で劣化していく。この世界観はとても現実に即しているように思われるし、生きるとはそういうことかもしれない。でも、心の中を物理界に依拠しなきゃならないという強制がある訳でもなく。

 

だって、その過去も「いま」手に取っている物なのだから、手に取るまでの経過はフィクションでしかないような。経年による劣化は肉体としては仕方ないにしろ、中身が劣化するのは自分で劣化して良いと決めたとき。

 

この時間の逆流というか螺旋というか円環という観念で面白い話がある。

(日記のプロって毎日綴るということではなくて、日々を楽しめることにあるのかもしれない笑)

 

 

昨日哲学少女と話しているときに文学理論の変遷を教授いただいた。

 

もともと文学を解釈する理論というか指針は、作者の生い立ちとかそれが書かれた歴史的背景のような、物証というか現実的証拠と照らし合わせていた。僕が文学作品の解説が苦手なのはここで、いや、そうでないだろうと想っていた。

 

これって、現代の国語教育にも通じる。作者の背景を勉強させられる文学史の苦行み。

小説の解釈の一元化とかもそうか。もっと自分の味覚で読めば良いのに。梶井基次郎の無骨な写真と病弱のギャップはなかなか良いと思う。

 

という流れをぶっ壊すように、いやいや、「テクストそのもの」を分析するのが文学の法理なのではとなったらしい。ロラン・バルトは聞いたことがある。ここに至ると、どういう人物が書いたのからは離れてくる。ライトな感じの小説はこんな感じで解釈されているのかもしれないが、個人的には、自分に合うかどうかとも離れてテクストを味わうことなのではという感じ。

 

自己の素朴とは離れていても問答無用で圧倒的な味わいがある文体がある、という風に読めるようになるような読み方の理論。自分はそんな経験とか思想を持ってないということが度外視される。

 

ここまではある意味、文学を物理空間から離す試み。

 

さらに乖離して、間テクスト論というのがあるらしい。時間の矢印方向を捻じ曲げる理論で、やや難しい。

 

文学作品の歴史は、基本的に過去の名作を読んできた人が創作するから時間的に見て現代の作品は過去の作品を前提としているという時間が一方通行である。ここは簡単に納得できるはず。

 

ただ、読み手の視点でから観測するとどうなるか。

現代の作品から入って引用・暗示された過去作品を読むことになるし、もともと知っていた過去作品の解釈が、それを前提とした現代作品を読むことによって移動する。

 

テクストは1つの意味ではありえないし、解釈に経年劣化はない。

 

 

この間テクストを拡げていくと、誰かの言葉を読むことで世界の解釈が変遷するということがありうるということ。僕の文章は蝶のはばたきでしかないが、おそらく他のところで書かれているような文章ではないから、変えうる。

 

この間テクスト論で言うと、人を変えうる言葉は、共時性があるかどうかを問わない。

 

昨日からのほやほや思索だからまだ粗いのはご勘弁。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。