ないがしろ

 

 

 

どん兵衛が美味しかった1日。

 

 

時折やってくる「楽しんではいけない病」。もはやこれを脱する方法は体得しているのだが、本日はなんとなくこれに浸ってみていた。精神的にしんどいのもややおかし。お風呂読書で戻してきて小躍りできるし。

 

感覚的な話だが、時間と空間がぎゅっと縮まって、「今」に閉じ込められる。これは「いま」ではなく、なんというか現代的世界観における今。外からきた今の世界観で生きることを自分が自分に強制的に強制しようとしている。要は、誰かとか環境からの受動なのに、自分がそう生きるべきだと自発的に制御しようとする感じ。

 

言語化すると「自分のままで楽しんで居てはいけないのだろうな」という様相。僕がこれを最初に感じたのはおそらく中学時代。努力って真面目にするものだというインストールが行われ、真面目ではない僕がそこに割り込んではいけないのではという疑義が生じた。今は分からないけど、田舎の辺境でも当時は順位が付いていたし、30人くらいの規模で最初のテストで1番を取ったくらいで日本規模では大したことないが、当時の僕にとって、世界はそこにしかなかった。インターネット世界も発展していない。

 

でも、パソコンのゲーム面白かったな。バレーと歯車やらのギミックを組み合わせてなんかするゲーム。でも根暗でもなく、いや、小学生時には中休み15でも校庭に出てキックベースなぞをしていたが、中学時は昼休みに卓球くらいか。卓球部が廃部になって遊びとして残った感じ。

 

 

なんの話だっけ(15分程通話していた)。

 

あぁそうか。全然勉強していないのにこの点取ったのかという羨望なのか嫉妬なのかという下り。理科のテストで86点だった。行ったのは野球部のキャプテンという陽キャヒエラルキーの頂点みたいな人。僕としてはおそらく、真面目に費用対効果をもって時間をかけていないというニュアンスで全然勉強していないと言ったのだろうが、ニュアンスを伝える術もなかったし、伝わったところできっと理解されない。

 

意志でやっていたというより、点数取るのが面白かったみたいな節。

順位は知らねぇから、順位が付いて嬉しいとかもなかった。

 

いまの順位が付かない全方面で動いて良いとなった方が吸引力は高い。

知識は持ち物ではなく、単に視界が拡がるだけの見通しの話。

 

そうして、大学時代がもっともその辺りの感じだったのかも。

地元から離脱してモラトリアムで謳歌したという感じはなく、単にそれぞれに窮屈があるというだけ。とはいえ、広がったのはたしか。実家に帰ったときに安心はなく、冒頭の楽しんでははいけない病の感覚がひどい。何もできないから漫画を読んでごろごろするしかできない。

 

料理も作らせてくれないし。まぁ当時はできなかったけど、可動域が受動的に設定されているということが、根っこにある。僕自身が決めた可動域でないことを、誰か他の人が決めているし、それに従わないといけないという感じ。

 

 

中学時代に物語を書くという課題があって、僕は「うしおととら」の秋葉流という天才の二次創作みたいなことを書いた。本気を出してはいけないって。本気を出すと天才過ぎて退屈になってしまうとひねくれていたら人間の枠を超えた妖怪である「とら」にぼこぼこにされるというなんとも不遇で幸せな人物。

 

僕の本気は、なんでもできるとのニュアンスが違っている。相対的な価値観の中での傑出性は皆無。ただ、「今」から「いま」に移行できるというだけ。ほんとの努力というのもやってみたこともある。院試時代に、1日12時間くらい勉強していた。ただテキストをひたすら読む。やったところで特に見返りはなかったが。一応受かったくらい。

 

結局法律学のこともいまの方が分かってきたし。時差。

 

「知性について」はある意味バイブルみたいな本かもしれない。どの視点から読むかで随分評価が変わると思うが、個人的にはどんな人も多かれ少なかれここで言うところの天才は備えているような気がする。意志に奉仕していない自分の動きって誰でもあるような。反発だと奉仕の向き違いだが、虫の知らせとか直感とか、まぁ普通はここに従えないというのも分かるけども。

 

僕はこの辺り自動操縦だし、動きも意志に連動させていない。自分を放牧できることはある意味自分大好き人間だが、個人的には自分は好きとか嫌いの対象にならないという立場。一生なにがどう合っても付き合うパートナーだし、そこの好き嫌いでぐずぐずしていたら世界で遊べない。

 

「今」としての世界観はぐずぐずしながらでも生き延びるという感じだが、「いま」の自分観は、自分の浮き沈みを肯定も否定もせずにただ眺めること。瞑想やったことないが、瞑想で得られる境地はこの辺りにありそうな。もくもくと誰も居ない山道を歩くときとか、そんな感じ。

 

物理的知覚が現実であるという至極まっとうと思われる世界性も、科学的にその知覚が客観的に共有できるものではないのが分かっているから、主観的なものでしかない。

 

 

僕が今日縮こまった世界で生きてみたところによると、歩行速度が変えられないというのがあった。自分の体の動きすら周りに合わすことを自発的な動きとする。電車から一番早く出られるポジションを確保している人は、あくまで自分が最初に出たいだけで、他の人を滞らすかなんて考えていない。この感覚がきちんとした大人なのではと勝手に思っているのだが、そんな大人は居なかった。

 

(僕は先頭になったらぶっちぎるから、後ろを滞らすことはない。トラフィックジャムは事故のもと)

 

だって、1つの社会を共有している訳だし、それくらいの分別はある。話したり仲良くなったりしなくても。

 

ふと、宗教観。

楽しむことって割と禁忌性があるような。楽しんで良い場所と時間が限定されている。これって、キリスト教のアダムとイブの感じとか、古事記でいうところの天照大御神の引きこもりとかに根差しているような。

 

知らぬ間に浸透しているのがほんとうの宗教。

 

僕は特に何も信じなくて良いから、宗教は間に合っている。

余白は埋める為ではなく、遊ぶために創っているし。

 

生きることがしんどいなら宗教は処方箋として良き道具だと思う。

 

うわ、時間オバー。

 

言葉を信じること。

僕は痛い目をみたから、人の言葉って相手の存在の半分くらいで読むものだとしている。

 

言語上の存在って、嘘も付けるし良いようにも現わせる。

 

言葉の現存性、ぴちぴち。

 

表現なのか、存在の記述なのか、願望なのか。

 

僕が独りで生きても問題ないのにパートナーがあっても良いのはなんでかって恋人さんに問われて、影響を受けなくても相手と過ごせると返すと、それって誰も良いですかと反響。

 

んな訳ない。

これを言語上で説明しようとすると、精神体に引っかかりそうで困る。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。