物体的素朴

 

 

本日は残業デー。30分の予定が1時間になった。こういう時間がない時に本当に大事なタスクが分かる。日常はだいたい1時間は机の前に座って本を読んだりメモを取っては捨てたりしている。アリのアプリをいじりながら。

 

別に行動の断捨離をするつもりはないが、惰性でない行動で充実させておきたい。本日は昨日書いた目論見通りひじきの煮物が副菜だったから、帰ってから一度も座らずにお風呂読書に入った。以下、僕の本日の帰宅後の行動の描写(一部はプライベートなのでカット)。

 

 

スーツを脱いでリセッシュをかけて着替えて、手を洗う。油揚げの油を抜くためにお湯を沸かしつつ、ひじきを水で戻しつつ、包丁の背で新ごぼうの皮を包丁の背を使ってはぎ取って切って水に晒す。たしかお酢か、お酢ないな、ポッカレモンにしておく。

 

お湯が沸くまで一息つける。仕事のカバンと買ってきた食材やら日用品を片す。今度は人参を千切りにする。し終わるくらいでお湯が沸いた。ざるに油揚げを入れて熱湯を注ぐ。熱湯を注ぎ終わった鍋に人参、ごぼう、油揚げ、ひじきの順番で入れて、水を投入。砂糖と本だしと料理酒を入れて火にかける。落し蓋なんて高尚なものはないから、アルミホイルの簡易蓋の上にお茶碗を乗っけた。

 

ここからアイロンがけのためにコンセントを入れて、アイロンが温まるまでに炊飯器の釜と、弁当箱のおかずの部分だけ(より早く乾くように)を洗う。ちょうど温まるからシャツにアイロンをかける。かけた後はお湯を溜め始める工程。この頃にはひじきの煮物が良い感じ、いや水気が減り過ぎている。ちょっと水を足し醤油を回しかけ、落し蓋を載せて、残りの洗い物を洗って、メインの豚肉炒めのためにピーマンを刻む。水気が良い感じに無くなった副菜を丼に入れて、入れ替わりにフライパンを載せて火にかける。豚肉を炒めながら、明日の弁当の米を研ぎながら、ピーマンともやしを時間差で投入しつつ、様子見。最後にポン酢を回しかけ、レンチンで目玉焼も作る。

 

この辺りでお湯が良い感じに溜まっている。やっとこさお手洗い。入浴剤とお風呂読書用の無知の塔二棟を投入し、全裸になって、湯船の中で満を持して座る。ここからは頭の運動。

 

お風呂から出て。ふと、アリのアプリにごめんなさいをした。

アプリの楽しさは現実と同じように、作業になるまで。

 

 

何か変な前置きになった。まぁたぶん言語化されてないだけで、人の行動量ってそんなに変わらないような気もする。

 

漂流文とかこの行動描写で割とちゃきちゃきしているような人格と捉えらえていそうだが、僕の素朴は語彙も行動もゆるゆる。無為の時間も大好物。意識できない時間を睡眠時間以外ないようにしたいだけ。何かをしたいけどできないという緩みではなく、何もしないという贅沢を意識で満喫するのが好き。

 

 

という感じで、本日は思索パートよりも物体としての寄りにしてみたい風情がある気分模様。

 

記事で、遊んできたというのを見かけて、そういえば、一瞬ガチでやっていたことを思い出した。ダーツのことから。精神的引きこもり勢に見受けられることの文章だと意外と捉えられそう。

 

(僕は場によって素朴を出し入れしている為、だいたい意外と評されてきた歴史)

 

大学の時、たまたま友人がハマって、近所にダーツバーがあった。機械は3台あって、陽の者も来るようなところだったが、マスターが陰の者でとても心地良くて、友人が居なくても1人で通ってカウントアップを不乱にこなす。1回だけマスターと将棋もしたのか。

 

その辺りで、マイダーツを購入して、道具と自分の体との対話を楽しむ。

やはりゲームだから勝ち負けになると委縮していた。だれかと比べるのは今でも無理だが、また疼く部分がある。会話での疎通もやっと馴れてきたし。

 

いまの自分にあったマイダーツを見繕ってもらって再燃しようかしらという気分。

 

こういうところからすると、一通りはやってきた感はある。麻雀もやっていたし、競馬もパチンコも1回は。健全な引きこもりではない。まぁ、「ノルウェイの森」的な、起きると見知らぬおなごが隣で寝ていたという経験は残念ながらない。

 

ギャンブル運がとんとないのは運の使い処を温存しているのだと勝手に解釈している。

そもそもそんなに面白くない。

 

緩いと言えば口が犬っぽいと言われた。

あんまり細かく書くと、私的領域になるのだが、(・ω・)みたいな口らしい。

 

確かによく笑っている。

とは別に、僕はこのご時世のマスク社会のおかげでより口角が上がっていたような感じがある。見せるための笑顔は苦手だが、日常的に1人でにまにまできる。

 

こんなしんどくて辛い世界でけしからんって言われそうだが、反論としては、辛いところを見つけようとすれば世の中には無限だから、自分にとって近いかどうかでしか問題にできないのはどうなのでしょうと返したい。

 

どんなところでも勝手に楽しんで良いし、自分の事情に同化して欲しいと思うのであれば、交換的に相手の事情にも同化できないといけない。これぞ共通感覚論。

 

事情とは無関係に相手の笑顔が良いと思うかどうか。

 

 

あと、まぐわいについての認識論。

こういうのを食としてのレトリック(暗喩?)にするのが常だが、男性は食べられる方だよなという素朴。省略。

 

思索パート。

 

言語学で、ソヴィエトの学者が、「無意識は意識の言語で翻訳することでしか手に入れられない」と表明していた。いやいや、そんなことありえない。いや、そういう世界観の人も居るのか。

 

なんで、自分の言葉にそれだけ信頼を置けるのか、というか現実とできるのかがどうもわからん。自分の中に言語化できないうごうご(うにうに)があるのは意識的にも感じることができるはずで。

 

こういう素朴な感じを信頼すると、僕にはどうも表現が関わる他者に依るというところがあるらしい。意識的にそうしているということではないし、操作している訳でもない。おそらくこれを後付けにして自分の意志としていそうな節もある。

 

あくまで相手の許容の中で動ける訳で、人ってもしかしたらかつてあった最大限の許容を前提としているのかもしれない。僕はここについては許容されていたとはしておらず、単に保護されていたというだけとしている感じ。

 

滅裂な感じだが、これが僕の素朴。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。