ノック

 

 

足をのびのびできる湯船も解放感だが、体をまるめてすっぽり収める我が家の湯船もぴったりする。しっくりするのは、歯車の凹凸が合うようなものではない。

 

お風呂のこうであるというルールもよくよく考えると何か不可思議。大浴場にはあまり行くこともないが昨日行ったときには、まず髪と体を軽くシャンプーとボディソープで洗い流し、お風呂にゆっくり浸かる。満足したところできっちり髪と体を洗って出る。お風呂読書だと、軽く洗い流すという気遣い行為が省略される。今の僕は大浴場に浸かった後に洗わずに出ることができないらしいが、これは誰かを見て倣ったわけでも無い。ついでに体を洗うのは何処であっても手で洗う。

 

この浴場から出たあとに流さずに出る風習って、かつて湯船の方が衛生上清潔だったという歴史からの流れなのではと妄想する。石鹸が希少な時代とかからの系譜、みたいな。

 

細かい自分ルールがあるという訳でもない。論理的言語的に動作しているというより、枠内の中で何をやっても良いのであれば、なるべく理に適うようにという感じ。意志とか規範でやっている訳でもないただの自然。

 

紳士だと言われたのだが、これも村上作品の「ノルウェイの森」の永沢さんみたいに「紳士とはしたいことをするのではなく、すべきことをする者だ」ということでもない。ここでいう「すべき」が義務ではなく可能であれは割と気が合いそう。何かが見えるとき、例えばこちらは手が空いている、相手の手が荷物で塞がっている、こちらには余裕がある、では配分も公平にできるなということをするだけのこと。手が塞がっているのをことさら探していることもない。

 

ふつーに自然に生きている。カントの美学で自然と機械の違いがあった。機械には意図があるが、自然にはこれが無い。この意味で人間の意図(意志)ってなんとなく機械的な感じがある。たしかに目的が意図(設計)されていない機械は在りえないが、人間の存在はそうではないような。生きることに価値があるかという問題提起自体が機械的人間論と読める。

 

自然の概念の中には操作不能が含意されていそう。都合に合わせてくれない、時間の流れの位相が異なる領域のような。個人的には人間的な「時間」も時計のちくたくではなく内部の自然だが。体感時間の移ろいは操作できない。

 

あと1日も休みがある。

 

そういえば、ここ2日の日記を読み返していたところ、天気の事をあまり書いてなかった。あまり無理を願わないから、お天道様と仲良くなってきた。全部晴れ。行きの新幹線、のぞみは人が多くて座れそうになかったため、数分後に出発するこだまに変更する。すかすかの車内でゆったり座っていたら、京都に着いたタイミングで車内の電気が落ちる。ぐらぐらはしばらくして収まり、発車。のぞみで立ってのって居たら周りのイライラに当てられたかもしれない。

 

普通についたら30分くらいは待たないといけなかったJRの乗り換えもぴったんこ。5分程出発は遅れたが、もともとの待ち時間を考えればラグはむしろ少ない。待ち人もこれでイライラする人でもなく。

 

人が多い場所での動作も、この3日の日記の文脈で読むと面白い。帰りの名古屋駅も混沌なのだが、誰もが壁の内側を大事にしていて、外側は最低限にするから、変な感じで滞る。1人ならすいすい間を縫う。2人なら、気を付けながら動くが別に内側だけを大事にしていることもない。でも、ふと思ったのが、グループの中で1人でもそういう人が居れば、そちらに合わせるのが生活上無難だから、そちらに依ってしまっている個人も居るのではないかということ。集団って1人の人間のように振る舞うし、個々人の自分ルールは捨象されるから、ほんとはそれをしたくない個人は当然在りうる。戦時みたいに。

 

脳の容量も認知している世界の広さによるのかもしれない。

他の人のことは分からないけど。

 

 

時空がねじれつつ、本日のこと。

 

この前行った海岸に再来。時間帯が前より早くて、海岸は干潮を待つ人と釣り人がちらほらしている。日光の熱と気温足す海風の収支で体は冷える。といっても歩く感じではない。この前来た時に行きたいところがあったから。

 

ドクターフィッシュに角質を提供すること。前回の自分は気になっていてもちらちら壁の外から眺めているだけだったのだが、2回目はきちんと動作した。10分間食べられまくる。最初はくすぐったいですと言われたがそんなこともなく。ただ、ぴりぴり電気が走るような感じがあった。暇だったから画像を撮ったのだが、グロテスクな感じだから貼るのは止めた。

 

この時まだ素面で、店員さんと普通に話したあとすぐ近くの沖縄物産展でオリオンビールを購入し、煙草を吸いながら「話すこと」について考える。外壁の中に入ることは基本的に無いから話すという外交がある訳で、もっと話した方が楽しいのではって。

 

今話せる人とはもっと話せば良いし、話せなくて話すかもできる人とは今度逢えたときに。後者の方は、この前造船所に行った演劇の演出家の人が筆頭に上がる。タイミング重視でなくしたが、タイミングを調律することは、「時間」をお裾分けする、してもらうことであって、予定とかアポイントメントということではない。

 

あえて話したいというまではいかないが、話せるなら話すことはあるよなという可能。

可能に寄った方が楽しいらしい。

 

そうして、言語化のギアの話。

 

昨日、いびき(幻聴)を聞きながら書いているタイミングで、何かトリガーが入った実感があった。言葉が出てくるという感覚とは微妙に違うのだが、言語として動作して良いのだろうなという感じ。

 

昔から基本的に無口で、お酒を飲んだら饒舌になるというトリガーは見受けられたのだが、これは楽しんでいるのではなく、ギアが低速になって世界の認知が雑にできたことで、言葉も雑になるという感じだった。あくまで壁の中。

 

最近のトリガーは頭の中でより散歩している。この散歩は夢と同じようなものだから言語でしか動作できないという感じ。言語が後追いの記録になっているのではなく、言語と今が同期している。過去を表現しているのではない。

 

このトリガーは別にお酒だけでもない。物理的散歩道とか、車窓の景色とか「見損なう」と言う人とか。

 

ただ、この感じを通常にして良いのかというと微妙なところがある。

 

疎通を意図した言葉ではないから、変な話、議論みたいになる。別に正しさを設定していないからより正しきがあればということであっても、素朴な僕の言葉は割と人を哀しくさせるらしいし(経験則)。

 

僕の楽しいが、誰かの悲しいだとしたら、口はつむぐしかなく。

 

ただ、そうでもない感じがなくもなく。

 

とりあえず、自分の語彙がつたなすぎる問題をどうにかしないと。自分を伝える言葉の語彙。不要っちゃ不要だが、そういう動作も習得しておく。

 

はい、おやすみなさない。

 

過ぎた時間よりこれからのいまを楽しめますように。