聞くこと、読むことは中で対話が起こるのであれば発話がなくてもお喋りなのである。
漫喫で満喫した1日。
二度寝、三度寝と睡眠を謳歌したがまだ午前の早め。朝ごはんには昨日スーパーで買っておいた麺とタレが別売りの味噌ラーメンをゆっくりいただく。ダーツ練習ができるところを探していると、灯台下暗し、徒歩圏内(17分、グーグル先生調べ)のネカフェに置いてあった。昔は良くカラオケやら漫画を読みに行っていたが、当時で既に第一次ダーツブームは去っており、視界に入らなかった模様。
アプリで調べると4台あるが、今居る人が4人から減らない。じりじり待ちながら洗濯をしたり、コンビニでチキンカツ弁当とごぼうサラダを買ってきて食べたり。この辺りでふと思い当たる。あぁ、1人1台使っていると限らないし、電話で聞くという手段もある。そうこうしているうちに台が空いたらしい。午後14時半くらい。
新規で会員登録。勝手知ったる場所だがダーツゾーンには初めて行く。カフェモカを持ってとりあえず一服したあと行ってみると、ダーツライブだけでなくフェニックスもありなかなか賑わっていた。左側はエンジョイダーツの学生勢で雑談の会話がやたらとでかく、右側はガチ勢が静かに対戦していて、なかなかのアウェイ感がある。
精神はなんともないのだが、体が緊張していることが手のプルプルした様子で分かる。とりあえず投げ込み開始。
全然入らないし、時々的から外れてフライトも外れる。腕が縮こまる。勘を戻すための反復だから問題はない。イップスの解消。第一次ダーツブームの時の方がブルに入っていただろうというくらいの的外れ。
そのうちガチ勢の人が居なくなり、次はカップルが隣にやってきた。男の人はマイダーツを持っているからそれなりなのだろう(それどころではなくて全然投げ振りは見ていない)。
全然入らないのは相変わらずだが飛びだけは安定してきた頃、隣のカップルが僕を話題にお喋りしていることが聞こえてくる。女性がおそらくあの人上手いとおっしゃってくれたことに対して、男性が「いや、そんなにうまない(上手くない)」と返す。
「せやで」と内心で返してしまうほどに男性の言に賛同する。そのあとしばらく眺められているみたいだったため演者(話のネタの道化)になる。1回だけハットトリック惜しかった。あれ、自分、実はうまいのか?
左のエンジョイ勢は別のエンジョイ勢に入れ替わりさらに音量が大きくなる。ハウスダーツでよくやるものだと思うが、短期的に狙って入れようとすればそりゃいくつか入るか。放り投げていればいつか。
行く頃には三時間パックくらいで限度だろうなと思っていたが、自らを見くびっていたらしい。なんだかんだ、煙草を2本吸いに行く以外には常にカウントアップをして時折501をして4時間経っていた。目標だった500はなんとか3回越えたから、少しは戻って来ている。
ブルに入るかどうかは気にしていないらしい。全然ふてくさらずに没頭している。狙って入れるというより、正しい位置から正しい動きをすれば自然と入るから、そこを試行している感じ。左が利き目で右投げだから目線と放物線は一致しないし、バークリという哲学者曰く距離は視覚ではなく触覚的な経験によるということらしいし、しっくりくる動きを探っていた。インブルが入ったときがそれ。
なんとなく感覚が戻ってきた終盤、体が追い付いてこない。手首と軸足が痛ぇ。それに隣りの雑音もうるせぇ。雑音はともかく体がブレーキになったので打ち止めした。
今度はもっと朝から静かにしたいところ。ガチ勢のめちゃくちゃ上手い(カウントアップ1000越え)人はここを巣にしているようだから、もう少し良くなってきたら無謀にも勝負を挑んで投友になる可能的世界線を目論んでいる。こういう性、無口だがコミュ障でもないのだろうな。この命題はちょっと後で。
ダーツを哲学するというか、頭と体の連動について。
散歩では頭もうごうご散策する。とっちらかっているいわば動。車窓と同じで意識とは時間の位相が違うため、これをスケッチすると徒然になる。言葉でしか書き顕せないのに言葉では足りないという意味では夢とも近い。
一方、ダーツの方の動きは静であって、頭の散策を止める動き。人はこれを集中と呼ぶのかもしれないが、個人的には集中って意図っぽいニュアンスだから没頭を当てたいところ。止めるのにもエネルギーを使うのは周知だと思うが、これはこれで心身の一致がある。
この動静はどちらも体が意識される動きということ。アミューズメントとしてのスポーツが好まれるのも日常において意識的に体を動かす動作がないからだと思われる。ちなみにバドミントンとかキャッチボールとか対話的遊びも好き。そういう風に高校のときの硬式テニスもすれば良かったのだろうが、語彙が足りていなかった。
4時間やって体しか疲れていないと思っていたら、お風呂読書の時にちょっと影響があった。文字が流れるのに対話が起こるみたいな。
存在の定義は自己を観測できることに尽きるのかもしれない。
リアルであるとかバーチャルであるとか、他人から認知されるとかとは無関係に。
そろそろさっきの命題。
無口なのにコミュ障ではないとは。
クリステヴァさんが、芸術のテクストを社会学的に考察したことは、日常的なテクストも然りと類推すると、解釈しなくて良いのが雑談で、壁がもう少し広くて解釈に焦点が当たるのがおしゃべり。
僕は雑談で繋げるのがほんと苦手。できないことはないのだが、ここでは僕は相手にとって事物でしかないのだろうなとなる。人観によっては雑談ができる対象も自分と同じ人間となるような気は、しない。本当に対等な存在と捉えているのであれば、他人で時間を潰すって在りえない。
母親と通話するのが嫌なのは僕の存在が事物でしかない雑談であるところ。
こんなの何も喋れない。いや、おしゃべりしても良いのだが、越境になってしまう。
酔っぱらうと本質が露呈すると眉唾でもない風説が存在するが、僕は誰にも決められてない自分で居られるところだと割と色々人と関係した歴史がある。官能的なことはないが、インターネット世界を含めると、なくはない、有る。
おしゃべりは自分のことを語ることではないのだが、語っている時点で存在の動作であるというを「性愛と資本主義」で読んだ。
言葉が何の為の機械なのかを思索するに、どう在っても存在そのものの証明にするにはあやふや過ぎる。かといって価値がない訳でもなく、動作として感知できる存在では在る訳で。
ここをあんまり気にしなければ僕はかなりおしゃべりな人物として仕方がない。
こういう意味でおしゃべりしてくれた人とかしてくれそうな人は気になるところ。
直近ではネカフェのガチ勢の人とは仲良しになれそう。レベルが全然違うが、あんまり関係ない。
存在論っておしゃべりすると楽しそうなのだが、自分の存在は客観的に捉えないと存在ではないという風潮がありそうで困る。
いやいや、人の存在は客観的にではなく、感覚的に捉えるもの。
まだまだいっぱいあるのだが、この辺りで打ち止め。
では、おやすみなさい。
良い○○を。