ただただ

 

 

なんだか頭の中がとっちらかっている。

良い意味なのだが、言葉を掬うのが大変。

 

 

「12週で天才脳を養う」で、脳の中身は街のようなものだというイメージがあった。個々の建造物(記憶情報のようなもの)は道が無いと繋がらない。ここでいう道が神経回路であるとすると、記憶力は結局のところ情報と意識を繋げる道である。

 

現実世界における街並みとか、路地とかも好物。

だいたいはどこかに繋がっているのだが、あまりに込み入っていくと行き止まりで誰かの家の前に着いてしまう。不審者と通報されないかのスリル。

 

都市論とか空間論も読んでいると、現実の構造は精神の現世(うつしよ)みたいなものなのだろう。どちらが先なのかというと微妙で、双方の交信ありき。舞台とか劇場とかスタジアムも、人がそういう空間を欲したから生まれている訳で。

 

国家はどうなのだろうな。

ある程度騙しつつ保護してくれる権威に需要があったのかもしれない。

 

 

さておき。

 

本日の日記的日記は特に書くことがない。スラックスを補給したり、残業あると思わせてなかったり、色々イレギュラーはあったが、あんまり書いていて面白そうではない。

 

古参の先輩が、作業するより人と話す方がしんどいと言っていた。そしてお洒落な先輩が、それは1日しかやっていないからではという反論。たしかに昨日古参の先輩から「いつもはしない作業だから時間が早い」って独り言が聞こえてきたような。

 

僕の中では、人と話す方がしんどい説に1票。語彙が限られた中で説得したり、納得させたり、安心させたり、コントロールしたりするのはとても大変。自分の頭の中のことを理路整然と説明できない人もいるし、そうなってくるとそもそも何を回答したら良いかがぼやけてくる。あと、特にそんなことを想ってないのに共感的感情を声に載せるのがほんと大変。大変なのは理解できても共感している訳ではない。

 

作業残業がなくなってうはうはだが、もう少し試行したいところもある。まだ早くできそうだし、左手の小指に負荷が無いようにすることもできそうな。まぁ人生上無駄かもしれないが、結局のところ、無駄じゃないものってなんだろうなとも想う。何の為に生まれて何の為に生きるのかを設定することが大事だと言われるが、そんなことなくても生きて良いのがこの世の人間だしなぁ。

 

ふと観測されたシーン。人って通り過ぎた事物については大事にしないのだなって。自分とは切り離してしまう。個人的には、通り過ぎた事物こそが今の自分を形作っている訳で、切り離すことができるようなものではない。情報として忘れたとしても残っているから、人格が固有になる。

 

すごくどうでも良い話。

昨日の日記に出てきた岡山に行った日記を探したり(単語検索「鬼」ですぐ見つかる)、最近ちょっと前の日記にスキをされることが多くて、それも何書いたっけと見てみたりしていて、たまたま足跡も確認した。

 

直近1ヶ月で1300ビューってなにかおかしくないか。全期間で8000ちょいのはず。嬉しいというより何かやらかしたのではないかと若干こわこわ。この畏れ多さは、認知されることに価値をあまり置いていない野郎が認知を是とする場に陣取っている場違い感なのかもしれない。

 

恋人さん曰く、「アングラのタイトルだからでは」ということだが、タイトル詐欺で申し訳ない。僕の性質は別に陰の者ではない。陰の中で仲間を作ることも需要していないし、陽の者ともよろしくできる(もうあまりしてないけど)。

 

まぁ、一年前の日記もスキが増えている日記も、本質的には同じことばかり書いているなという感じ。ちゃんとこのいまの僕と繋がりがあって分離していない。書いたことは過ぎ去った事物ではない。

 

やれやれしながら思索パート。

 

新規情報の採り入れというか、学習について書いている人が居て、なかなか面白い。

できる人のことを分析して方法論を採り入れるとか、かなりの向上心が見受けられる。

 

僕も結構傍目から見れば学習志向が強そうだろうが、演算能力とか事務処理能力とか記憶力の向上とかは人間自体の能力というより脳の部分的な機能だから、あまり重視してはいない。これをいくら高めても人には勝ててもコンピュータには勝てない。

 

ユートピアの思想におけるディストピアみたいな世界で、人間は機能になって、時間通りに機械的に動くという話があるのだが、それと似たようなことだと思う。

 

僕の中の人間的な賢さは、単純な機能ではなく、もっと数値で把握できない「気付き」とか、問題を発見できる曖昧な能力、AIが画像認識に疎いというのもそういうことで、人間の世界は機能に分割できるようなものではないような。

 

もちろん個々の機能の総合みたいなものだから、脳トレとか記憶のトレーニングも大事だが、そのときだけしているのもどうなのだろうな。

 

 

なんでこんな話になったのだっけ。

 

あぁそうそう、この記事を読んでいて、学習の材料である「言葉」は機能なのかという問題が起こったのだった。

 

ある分野を学習するときの教材はだいたい言葉で書かれているのだが、言葉は学習している対象そのものではない。言葉を概念だったりイメージだったりで抽出した意味こそが対象である。言葉そのものを記憶したところで意味は把握できないし、意味の握持は、自己の内にその意味を掴めるとっかかりがあるかどうかによる。

 

ここにおけるとっかりは、時間をかける努力というより、内部の世界においてそれを採り入れる余白があるかどうかによりそう。

 

僕は読書家に分類される人物だと思うが、名言を収集する癖はない。

響くフレーズというのは分かる。ただ、そのフレーズだけで響いた訳がない。もっと前後の文脈とか物語全体の感じの一部。

 

言葉が対象そのものではないというのは、割と世界全体に適用できそうな解釈。

言語学とかは疎いのが、言葉で表現したら(もしくはしなければ)、存在として認識される人物像ってほんまかって想う。

 

詩作の人はそういう世界観でやっているのだろうな。

なんなら小説も、物語としての言葉と対象がずれている。

 

この間隙が醍醐味である訳で、世界は解釈と同時に観測するものではない。

この発想面白そうなので、しばらくやってみようというか、こういう世界観で生きたかったのか。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。