多弁

 

 

 

お喋りが過ぎるのではという感じ。

 

初めて一人暮らしの家で男三人、宅飲みしたときに、氷結で酔っぱらって「恥ずかしい」と連呼していたのと似ている。

 

何の開示が恥の概念になっているのかもよく分からない。これだけ中身を垂れ流しているのに、何処にそんなスイッチがあるのか。

 

この「大丈夫か、自分?」という感じにおいて、何か大事が起こったことはないからきっと自己規制でしかなく、これを突き抜けた先にまた拓けた所があるのかも。より自発的迷子的散策(思索)へ。

 

 

さておき。

 

やはりお刺身を挟んでいないからご飯がマンネリ気味。そのため、メイン料理の野菜に豆苗を買う。草なのにちょっとマメっぽいのが良い。サラダも好きだが、不動のベビーリーフが鎮座しているため炒め物へ。

 

副菜も和風から洋風に奇をてらって、パプリカと茗荷のマリネ。パプリカを細切りにして塩もみして放置。洗って絞って茗荷を加え、水、オリーブオイル、お酢白だし、昆布茶、砂糖を入れてシェイク。どうなることやらと思ったが、箸休めに最適のさっぱり味。冒険しても失敗しない。揚げ物用の油も常備することになったから、そろそろささみのチーズフライが食べたくなってきている。

 

 

そういえば、本日は本格的な雨。職場に置いた傘が帰りになくなっていた。この職場における傘は共有財産になっている。いつでも置き傘が溢れている。傘の共有化の提唱は昔よんだ「パイロットフィッシュ」だったか、「アジアンタムブルー」だったか。使うことでしか機能を持たない物は財産にカウントしない方が、皆身軽になるきがする。

 

専門用語だと物には使用価値と交換価値がある。この用語を知ったのは、民法の物権という分野の本。所有権が完全な物に対する権利であって、使用(利用)できるし処分(売却(交換))できる。抵当権は物を使用することはできないが、交換をするとしたらの価値を担保として把握している権利、みたいな。

 

ただ、これって今の法的感覚ではなく、もっと前の哲学なり社会学なりが発明した概念を流用しているのだよな。したり顔で。いや、ほんとうの専門家は苦難していると思うが。

 

お金は財産だが、所有していると言えるのか。

 

ちなみに刑法における窃盗罪の客体になる財物には、客観的な価値とは別に主観的価値もある。他人にとって財産価値がない物でも当人にとっては思い出の品だった場合、それを盗ったら犯罪ですよって。

 

まぁそりゃそうだろうと思いつつ、なんでそうだと感じるかって、そういう感覚が浸透しているから以上の論理的な理由はないのだよな。所有している感覚は物だけに留まらず他人とか自然にも拡がるものだし、きちんと区分けできるものでもない。

 

お昼休みにリブロで立ち読みしていると、ふと、「難しいことは何故難しいのか」という思索が起こった。難しい所以はどこか。

 

法律学が難しいのは、法が社会の動向によって移り変わるという変更可能性にある。普遍の法があるとすればそれは自然の営みと変わらなくて、人間の法なら個人個人が完全に納得する共通ルールはない。にもかかわず、法はルール付けを存在意義とする。この意義を保つために論理がある。社会が恙なく運用されるための最低限のデフォルトルールとは何ぞやという理由付け。少なくとも六法に分類される古典的な法律はそういう精神がある。

 

完全に表に出なくなるのが法の理想像なのでは。かつては道徳との一致は法を歪ませるというのがあったみたいだが、それぞれの理性としてみたら、云々。

 

個人的には人個人の方が法律学より難しいと思っている。人は社会の動向より遥かに即時的に動くし、かつて正しいことが時機によっては正しくなくなるし。人の運用を把握することは人間の能力を超えているような。自分に対しても含め。

 

この分からなさが醍醐味。

 

 

で、もっと一般的な難しさに戻して。

おそらく、自分との距離感によって区別されている。簡単だと思えることは自分の法則と近くて、難しいことは自分の素朴と離れていること。

 

もしくは、自分の方法論が情報の蓄積によって成り立っていると思っている自己観の上に、新しい情報を乗せていくという徒労を難しいと表現するとか。基本的に難しいことって採り入れられない、あるいは採り入れる価値があるというなんだかんだ自分に引き付けた言葉だと思うのだが、僕の感覚とはちと違う。

 

こういうのを統一的に把握できないかと目論んでいるのだが、なかなか難しい。

 

最近理系のデジタル的な感覚もやっと分かってきた。

理系の人の方が人に対して自分と引き付けない優しさがありそうというのは、数学がかなり恣意的に厳密に法則を限定した世界だからではという想像。適用する法則によって結果が変わる。

 

簡単なところだと、1+1の答えは2だったり、0だったり1だったりするとか。

僕は未だに分数の概念が曖昧だったり。

 

理系はアルゴリズムさえ習得できれば分かる世界。

これを習得するのが難しい。素朴な感覚とは離れているから。

 

やれやれ。

 

そうして、文系。

文系ってベン図で言うと理系の方法論に精通していない集合だから、単に識字できる人から言葉を突き詰めている人まであって、発話の空気感でうぇいうぇいが文系みたいな層もある。

 

言葉が自分の存在と混在なのかというのは1つの指標だと思う。

 

まずもって、文系と理系で人を区分けする人って、きっと国語の成績が芳しくなかったと思う。芳しい人でもそういうマウントを取るのであればそうかもしれない。

 

文系の大学を出たから文系脳になる訳でもない。

文系の学問ってほとんど情報を集積しているかどうかだから、言葉そのものを考えることがない。専門用語を覚えただけで良い。

 

どんな大学を出たとしても人にマウント取るような人格は、理系でも文系でもないただの一般人だと思う。

 

知らんけど。

 

お喋りが過ぎるな。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。