疎通不足

 

 

曇ったり雨が降ったり、窪んだり、総じて楽しい1日。

 

 

9時くらいに目が覚めて外を見ると雨が降っていない。ということで、奈良に行くルートなる。ドライブをしながら、助手席でふざけていると空腹のお叱りを受ける。怒りの顔色は割と苦手なのだが、こういう面が見られるのも良い。言葉とか機嫌とかではなく「かお(としか言語化できない)」で判断している節。

 

厳密に言えば、僕にも何をもってそう判断しているのかが分からないから、何故かと聞かれても言えない。言わないのではなく。表象を判別しているルートに言語がないからやろうとすると飛び飛びになる。

 

思いと感じの違いは、原因の有無なのか。

 

 

そうこうして、まずは到着。

 

あっさりしたラーメンが食べたい舌に適う煮干しラーメン。

語呂もするするして良いお店。

 

古い街だから古書店もあるだろうとちらっと検索して見つけた古書店。「命売ります」の流れで、三島由紀夫氏が好きな店主という口コミに違わず、三島棚が充実している。「文章読本」の初版本がやたらと高価だったが、僕は物としての希少性には特に惹かれないし、たしか「文書読本」というタイトルで漁った時期があって、そのときに読んでいる気がした。谷崎さんとか吉行淳之介さんとか、ヘッセさんとかもあったような。

 

命売ります」は何故かなかった。有名どころではなく、なんとなくタイトルに惹かれた「純白の月」にした。「不道徳教育講座」は大学の図書館で借りて読んだはず。

 

講談社学術文庫も充実していて、目が飛ぶ。これもなんとなく、「文化人類学入門」。岩波文庫も特に緑が多くて、文章読本ならぬ、「詩を読む人のために」。三好達治著。個人的に書くためには読まなくてはいけないという説。たぶん、天才はその形式を読むことなく、自然からその形式に変換できるように読める資質があるのであって、自然に芸術が発生することはない。

 

あとは、奈良公園に行く予定があったから、早足で一周し、月繋がりで安部公房さんの「笑う月」、横光利一さんで面白そうな「夜の靴・微笑」。ほくほく。

 

あれ、1冊足りない、と思ったら、このビルの2階が古書店で1階はレコード屋さんだった。まずはここかと思って入ったのだが、恋人さんが音楽好きでお気に召した模様。僕はどうするかなと思ったところ、何故かハヤカワ文庫のSF小説が置いてあって、ぱらぱら読んでいると楽しくて、即買い。「猫のゆりかご」というタイトルも良い。

 

読んでみると、「世界の終末」をテーマとしていて、原爆投下の日とか、その研究者とか出てくるのだが、「これから書くことは全部嘘っぱちだ」とか、「カラース」という神の御心を実践するグループで人と人が繋がっているとか、とんちんかん。

 

僕は本読みではあっても本界隈のヲタクではないから、あんまりこの系列ではこれみたいな知識が無い。と、言ったら、硯さんのふらふら具合は掘り下げとは違うよねと言われる。たしかに、仲間内で楽しむような気概もなく、いろんなジャンルを散策して見つけたものを自分の中で楽しんでいる節。

 

自分を分岐させたとか、重大な影響を与えた物的、というか、存在に対する錨みたいな根がないというか。自分の分岐はバタフライエフェクトみたいなものであって、見えた現象だけが要因な訳ではなくて、なんならどこかで寝坊したとか、草花に目が留まったこととかも要因でありうるしなぁ。

 

奈良公園の道中、鹿に噛まれる恋人さんの図を見たり、コーヒーを2杯飲んだり、運試しでエウレカセブンの主題歌シリーズを聞いたり、こわやこわやの大阪のドライバーのマナーを眺めたり。僕はペーパードライバーで車も持っていないのだが、この1日だけで車線変更禁止のオレンジの線を越えた車を3台は見かけた。運転するなら田舎に限る。

 

そこから戻って来て、「赤から鍋」というお店でご飯を食べた。楽天ペイが自分のスマホのアプリに搭載されていることを初めて自覚し、電子決済の幅が拡がる。

 

 

やれやれ。

 

ここから、自分の「発話ポンコツ」について内省する下り。

良い加減愛想を尽かされそうな感じだが、何故改められないのか。

 

僕の人生の時系列上でしんどかった時期と今とどう違うのかと聞かれて、答える言葉が出てこなかった。僕の中では明確に違うのだが、外から見れば顔がしゃっきりしたくらいにしかならない。

 

でも、文章脳だったら言語で描写することはできるはず。

ただ、文章脳は内部のスケッチだから、読めるようには書けても伝わるようには言語化できない。端的に書くとすれば、世界の見え方が一様ではなく統一化されていないの普通だと気付いたこと。自分の気分によって世界は縦横無尽に伸縮するし、それが一様であると決めつけてきたのが自分として設定される存在だったということ。

 

アダルトチルドレンみとか、依存症みとか、社会みとか。

 

ある意味、自分という前置きから離れたのがここ2年くらい。

自分だからこうするだろうという見込みをしないことによって、因果不明な存在である自分に罪悪感を抱かなくて済むようになった。相手に罪悪感を植え付けることによってなにがしかする人は多い。僕はもはやそういうルートの人には従えないけども。

 

そんなことより、発話について。

これって思考ではない。内部で考えていることが外部に発せられないという症状でもないし。おそらく、自分を眺めるフェイズに加えて、自分のことを読み物として読む面を止めているから、言葉が出てこないのだろうなと。自分についての思考は自分のことを言葉で規定していく試みで、きっと個別的な論理則というか因果則がある。この存在観は簡明なのだが言葉からはみ出した自分が悪さをするというか、しっぺ返しをしてくる。

 

そうでなくて、自分のことを現象としてそれを読んだ抽出結果としての言葉を外用に用いる試行。自分のことを表現することに怠けているから要テコ入れ。

 

難しや。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。