ただただ楽しい

 

 

 

昨日の朝に家を出て、今は日常。旅疲れなんて知らなくなった。帰ってからここ二日で課金して読み返していた「ハイキュー!!」を読み終え、ご飯を作る。ひじきが食べたい気分だったから副菜に人参とレンチン煮物。ひじきの味はひじきの味としか言えないが、なんだか好き。

 

僕のバイタリティ? は、別にやる気とかではなく、ただするという感じ。「ハイキュー!!」で言うところの北さんとか、宮兄弟のおにぎり屋さんの方に近い。とはいえ、「ただする」の中に面白がっている節もある。木兎さんの奔放さとかもある。現実では相手に意味が分からない言葉を発しまくっているし。あと、楽しんでいることがストイックと捉えらて、周りが着いてこられないというところとか。集団でやるスポーツの部活だと浮きまくるだろうなと思いつつ、捨てられない我で生きていることでそうやって生きてきた全員でバレーできて楽しそうで良きだった。

 

強いが自由になるのがスポーツだが、強くなくても遊べるのが個人の人生劇場。

 

僕がこれだけのバイタリティ? を発揮できなかったのは、おそらく人と居ると疲れてしまうから。気を遣って大変とかではない。もっと深いところで情報処理が落ちる。選別ができなかった。いまは安心。たぶんもっと交友関係拡げても大丈夫。

 

なにせまた突き抜けたらしい。恋人さん曰くの昨夜。

指摘された推しメンの結婚情報はたしかにきっかけではあるが、なんというか物事はもっと複雑で、要は、「僕はもっと我であって良い」というところに集約する。元気人間。

 

そういえば、僕も高校の部活には割と没頭した。高校の硬式テニスは基本独りだから、なんか遊んでいた片鱗。監督は頭を使ってプレイしていると評されていたが、特に言語化できる思考はしていなかった。それより、諸々の空気が気になる。先輩に勝ちそうになって力抜けたり、ごりごりの強さで遊ぶ自由はなかったらしい。メンタルが弱いとかではなく、我を認識できていなかっただけ。

 

今ならダーツも行けるか?

 

色々状況を気にしてしまうのがいけなかった。

目に入ってしまうことを入っていないことにはできないが、それをどう扱うかの主導権は我にある。これは自分の中に生じる感じとか気分も含まれる。現象に対する反応という波を意識に上げてきているだけで、それが我の存在である訳でもない。

 

 

抽象的になってきたから、まずは本日の朝に戻る。

 

僕は生活が外にあるという世界観嫌悪者だから、そういう人とは生活できない。外のことははするし分担もできるが、おそらく生活を外としていると、自分がしなくても良いなら当たり前として認識できなくなる。自分がしていることだけしか見えない。外なのに自分の物。

 

ちょうど良いなと思うところ。

僕の身支度の早さを加味して寝かしてくれる。かつての恋人さんは僕がタイミング合わせる為にごろごろしているのを何故か不機嫌にフィードバックされることがあった。自分があくせく準備しているのにごろごろされるとなんか不快なのだろうか。待たせることで自分を確立する何かの味?

 

別に僕は意図的に作る待ち時間はご褒美タイムだから問題無いが、作らされる待ち時間は不快ではある。行列には基本並ばない。

 

あと、吉牛で朝ごはんを食べたあと、「ご飯が固かった」と感想を述べると、僕が不快を表現したのだと捉えたらしく、「不味かった?」と心配そうに聞いてくる。たぶんこの人、不快を体現する言葉をいっぱい投げられてきたから人の言葉に敏感なのだろうな。今想っただけ。

 

歯ごたえある米は好きな部類。もう一段先の言葉として、ここの白ご飯が固いのは牛丼の汁気に負けないようにしているのだろうなと思ったことを述べる。そうすると、「そういう風に考えたことはなかった、そうかもしれない」みたいに、話が通じる。

 

これは合理ではなく、単に想像力の話。

合理性も想像力も思考という懐がでっかい箱には収められる。

 

ほんとうの意図を知るためには吉牛にバイトで入ってマニュアルを参照しないといけない。けども、それを知ったところで他の物事を想像する能力は培われない。想像は同情とか同調とか共感みたいな、まず我ありきみたいな基準ではなく、自分から離れる心許なさがあるから、教育でもなかなか難しいところ。

 

自分がこうだから相手もこうだああだという世界観では、他人のことを観察してもその外が見えない。

 

ここからやや書きにくくなってくる。

 

僕を面倒くさらせる人物って、もうほぼ世界に居ないのだが、ある意味唯一の存在であるお母さん。用事があるから電話しろという伝言メモがあり、折り返した音楽イベントがやっている施設の喫煙所。

 

やっぱり面倒くさい案件。というか、人物が。もちろん前世代だからという決めつけはない。そんな決めつけをしていたら古事記の世界観とかも読めないし。母親として尊敬もすることはない。ただ、個人として尊重はしている。尊重って、自分とか状況の色眼鏡で捉えないこと。

 

案件はうちの家督というか、氏族をどうするのかという話だった。僕は僕の苗字も名前も好き。時間の始まりから終わりを一塊にしてとこしえとして捉えるという語義がどちらにもあるし字面もシンプルでほんと好き。

 

ただ、系譜としての氏族的な意味合いにおいては、全然虚無。お祖父ちゃんもお父さんも好きだったが、これはDNAが一致しているからではない。血が繋がっていても他人であるっていう前提で、思い出補正もせずに。

 

お母さんにはそういうのが無いらしく、今後の○○家についてどうしたいかという話し合いの場が所望されている。

 

ひと昔の僕であれば、ぼやかして逃げる場面だが、したいというなら参戦しても良いかなという気分になれる。

 

でも、世の中の話し合い(会議)のほとんどが、特に生産性がないのは確か。

自分の主張が正しいって思い込んでいる人は話し合いにおいて自分の主張を通そうとするが、そんなの説得でしかないし、なんなら、主張した自分に納得したいだけではという感じ。

 

もっと自分にも余白があるという余裕をお互いが持ち寄るのがほんとの話し合いだし、それがもともとできているのであればそもそもそんな場所を設ける必要がない。

 

その場に行く世界線があったら、僕は母親を泣かしてしまう予感がある。

傷付けるような言葉を発するのではなく、「貴方はほんとはどうしたかったの?」という話で。

 

見栄と建て前で生きていてしんどいと言っていたことにも同情できないし、一生懸命やってきた(けど失敗した)例として姉と妹との疎遠を語る。お互い理解できないし、理解されようと想わないというのも、なんだか世界に対して他責的なんだよな。

 

何より、その失敗作として子供を語るということも、僕も失敗だったのですかって。

 

話し合いと言いつつ、棚上げしているし、どうせ母という立場を使ってくるのだろうなと思うと、なかなかげんなりだが、尊重的な世界観だと、その人生劇場は貴方が選んだ世界線ですよねということになる。

 

話し合いに対して、子供の僕が、「それを父親ときちんとやってきてくれ」と思う。父親と僕のDNAは近いと想う。否定されたらそうなんだろうなって思ってしまうし、伴侶が自分を家族を保つ為の敵として扱うのなら甘んじるお人好し。為政者は敵を創ったら自分の不備の目線を逸らせるから楽なんだ。

 

何を一生懸命やってきたんだろう。

不器用な人だ。

 

やれやれ。

皆もっと自分で遊べば良いのに。

 

日常のお風呂読書。「学習する組織」で潜在意識の話が出てきた。潜在意識と健在意識の疎通。僕はこの辺り、潜在意識氏をとてもリスペクトしている。歩こうをと思わなくても歩けるのはここの学習のおかげであって、意識で完全にコントロールはできないし、ある意味意識できる自分って、この潜在意識という巨人に乗っかってあくせくしているだけの存在。

 

だから、僕は今後どんないいことが起こってもイレギュラーとはしない。

 

こういうのがやっとこさの自我の統合なのか。

人生劇場は遊び場だが、遊戯はルールがあるから楽しい。

 

タイピングが追い付かないのがもどかしい。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。