どこに世界を置くか(中)

 

 

無心になる遊び。調子の調整というか、終わった後にも顔が元気。

全然がっかりしてなくて、むしろ何か滞りが解消したというすっきりした気分。運気というより考え方というか、世界観。この側面だけで書き進めると変な感じになるが、ある意味、職業の貴賤にも通じていく。何をしているかと、それによってどれくらいの金銭を得るのかというのは切り分けられるべきだが、なんだか金銭のワイルドカード性が強くて変なことになっている。

 

こういうところから社会の構成員が生産したものは平等に分配されるべきという考え方が出てきて失敗した(ように歴史上は見える)。でも、資本主義だって別に寄与度によって対価がきちんと分配されている訳でもないような。

 

そもそも、何をもって貢献とするかも人それぞれ。

物体的に考えれば、インフラとか農業とかが最強の貢献のような気もする。人の欲求を解消する産業だって、ガス抜きして免疫力が高まるならかなりの貢献度である。

 

アイスを食べれば体内の糖度は増えるが、美味しいアイスを食べることで守られる精神もあるだろうし、精神は肉体に影響するし。禁欲が良いという世界観は宗教で良くあるが、それが合う人も居れば合わない人も居る。快楽主義も極端だし、欲の本質って何だろうな。

 

 

イメージの話。個人って尊重すべき対象とされているのだから、なんというか不動、ないし確立しているという像を想像する。でも、よくよく考えると、物体たる肉体の皮膚だって毛穴が空いていて色々素通しするし、細胞も膜はあるが何も通さない訳ではない。そもそもが微細な管のような存在で、入ったり出たりする外界によって影響を受けながら動いていく存在と捉えるのが適切なのでは、とふと想う。

 

もっとも分かり易い管は、下世話な部分ではなく上の口。食べ物のこと。

昨日はカップ焼きそばをがぶがぶ食べて返ってきたから、本日はうどんを作ってゆっくり嚙んで食べた。作り過ぎた煮物と卵を投入してなかなか豪勢な塩梅。戻ってもこない。

 

帰りのスーパーでお刺身を買って、副菜どうしようかとお漬物コーナーに向かう。物色してみたが、食べたい物がない。これだったら自分で作るかときゅうりを一本買って、柚子胡椒風味の浅漬けにした。うまい。

 

週1くらいで更新がある人の記事で、料理の話があり、美味しく読んだものだから、なんとなく料理考。たしかに、てきとーに口に入れた食べ物はなんというか身になっていない。蓄えという意味で身にならない方向もありうる。

 

時短とか器を気にしないというのはてきとーさとは別のこと。ここで言っているてきとーは、自分の口に入れている物が意識されないというところ。誰が作ったか、どういう風に作られているかみたいなことは加味されず、空腹という管を埋めるという効果だけを問題としたとき、栄養価の問題より、何か精神上で問題が起こりそう。

 

別に、あえて作らないという方向もある。他に当てたいことがあるならメンテナンス度外視で突き詰める時間も要るだろうし。

 

そういえば、時短で想い出したのが、長く過ごした恋人さんが神奈川県の青葉台で1人暮らしをしているときの所作。料理を作れる人なのだが、洗い物とか片付けとかが面倒だからということで、省略していた。レンチンのご飯の器はプラスチック臭があるから匂いが強い納豆で相殺される、みたいな。あんまり食べることに人生上の重みがなくて、あくまで肉体の維持ということならこれで良いのかもしれない。食べ過ぎると体調悪くなるみたいだったし。

 

僕も別に手料理に温かみを感じる精神は持ち合わせていない。自分で作るようにしているのは、てきとーに食べると体調が悪くなるという自己防衛と、遊びの1方向。余地があるのであればやってみるべし。本格的に作りだした一歩は日常料理ではなく、晩酌のおつまみを自分で作るという試みだったはず。たこわさを白出汁仕立てで作ってみるとか。

 

そういえば、器問題だが、洗い物の労をいつの間にかほとんど感じなくなっている。これは習慣的に無意識に片付けるようになったのではない。むしろ習慣に任すと溜めていくから、毎回意志みたいなもので洗う。溜めていると次のご飯が回転しなくなる。別に明日の自分に任せても問題無いのだが、問題がないならなお洗っておくし、洗い物が増えることに煩わしさはない。だって、自分が使ったのだから。

 

時短のインプットと言えば、今の恋人さん。僕の知らないご飯をさくさく作る。手法をちらちら眺めていて採用したのが、鶏肉に片栗粉やら小麦粉をまぶすときに、新たに器を使うのではなく、肉が入っていた容器をバットとして活用する時短と合理の両義性。

 

あと、記事を読んでいて思ったもう1つ。さくさく作る恋人さんですらやっている、「味見」を僕はしない。何故だろうと自問。1発勝負のギャンブラーの当て勘でなんとかなる説。普段使っている調味料であれば、どれくらいの配分でどんな味になるかはだいたい分かるという体験則。もちろんかなりの屍の上に立っている。笑

 

調理場は実験場。

 

 

料理ができることってスキルみたいに捉えられがちだが、自分で創っているのではなく加工しているだけだから、生産者ではない。醤油を他の調味料で代用することもできないし。自慢とかマウント取ることでも、劣等感を抱くところでもない。

 

体のメンテがしやすいというのがあるだけ。

食べたい物が体が欲しているもので、そのリクエストに応えられるという。

 

母親は料理苦手ながら頑張って姉弟妹(きょうだい)3人のご飯を作ってくれたことは賞賛。お弁当も然り。なかなか苦行ポイントの地雷っぽいから、あんまり語れないが。僕がきちんと弁当を平日毎日作っていると言うと凄い凄いと言われるが、この凄さって僕を賞賛しているのとはちょっと違うような。

 

苦手の定義は、他の人より上手くできないという相対性ではなく、それをすることで苦行ポイントが貯まるという絶対性にしたくなってくる気分。僕は相対的に色々苦手だったはずだが、いつの間にやらそれらを苦行ポイントにしなくなっている。苦行ポイントは視点によっては努力ないし試行ポイントであって、いまや左手でお刺身を食べられるようになった。

 

この辺りの発端が昨日観た演劇を見ている時の世界観にあった。

(誰か当日券で見に行ってくれた人は居るだろうか)

 

もっと広く演じれば良いのにと思うが、こういう風に観られたのが僕だけかもしれない。まぁそりゃそうか。人は一様に別物なのだから、細部までいけば何をどう捉えたのかは僕だけの物。

 

そうして、この感じを伝播できるのは言葉だけ。

言葉の本質は情報ではないのだよな。

 

 

やれやれ。

 

まだ劇評っぽい中身は書いてないが、ほんとちょうど良かった。

 

恋人さんの選書で建築学視点の、空間をどう捉えるかという本に、アナモルなんとかという言葉があった。グーグル先生に聞いてみたらこの言葉は歪視と書かれていて、全然違う。

 

まなざしとしての存在が移動して体から離れるということだった。

自分の世界が体に限定されない。

 

体感は別に体験に限らない。

 

管に入ってくることは別に肉体領域に留まらないから人は影響を受け続けられる。

 

なんだか中編になった感じ。

 

安部公房さんが、見たことしか書かないようにするというのは言語界の本質ちっく。

 

はい、おしまい。

おやすみなさい。

 

良い夢を。