はっぴー

 

 

 

若干感傷モードとお祝いモードでなかなか錯綜している。

 

 

お仕事が前者。

 

あと5日勤務は残っているが、良い職場だったなぁという観。あんまりねちっこい連帯感はないのだが、さらっとした仲間意識みたいなものがある。来週から2週間育休の、最初の方にちらっと指導してくれた上司が挨拶に来てくれた。お世話になりました。なかなかシビアな指摘をされた(トイレのタイミングとか)のだが、たぶんできないことは言わないだろうから、なかなかある意味目をかけてくれていたのかもしれない。とはいえ僕からは話すことがあまりなくて、薄情な挨拶になったかもしれない(気にしていない)。

 

 

あと、外部の応対の指導をしている人と、もう1人委託会社の人と、女性上司と、フィードバッグの研修があった。自分が応対している音声を聞いて振り返るという辱めを受けるような。あと1週間という話が通されてないのかと思ったら、通された上であえて今後の生活に活かせればとのこと。親切過ぎないか。

 

たしかに、ここの仕事によって自分の声(発話)を俯瞰できるようになったような気がする。おかげで、諸々の生活上の事務電話も楽になった。自分の声というかやりとりに自分で感想を付けるという辱めで、最初の頃より良くなったというところと、ここが拙いとの指摘をしたら、なんだか感動された。そうやって人の話のポイントを把握できるような能力は実生活でも役立つよって。ありがたや。

 

おそらく、当時の音声より今の方が笑顔っぽい声は出ているような。要は、ぽい声が出れば良いという発話方向。聞き手としての方向では愛想が良い声って特に印象を左右しない。愛想が良い声を他人に出せるということは、それで洗練しているというだけであって、そんなことより日常的には愛想が悪そうな人が僕に対して緩んだときの方がぐっとくる。

 

事務的なところでは愛想の良さよりも仕事の結果がどうかというだけ。まどろっこしいクッション言葉よりできないならできないってすぐ言ってくれた方が楽。特に期待している訳でもないし。生活上の他人の雰囲気が問題になるのは結果とは関係ない空気感の話だと思われる。結果が問題なのに、過程でクッションを置かれていればというのは何か微妙にずれているような。

 

送別会は来週の金曜日の予定らしい。楽しみ。

 

 

そうして、愛知にやってきて、お祝いモード。

ご馳走とケーキもいただき、ワインも美味しい。ほんと、満月さんの料理おいしい。凝るタイプで日常のなか継続するぽい感じではなさそうだが、僕が継続型なのでちょうど良い。全然料理をしない満月さんというのは想定できない。だって、こういう部分は人を条件で切り取ったものではなく、人格と連動しているから。料理をする人でも、人格と切り離して生活条件みたいな苦行としてやっている人だったら、その苦しさと同居するのは厳しい。しんどさと同居するのは自分とだけで充分ということになりそう。

 

僕は別に自分と同居することにしんどさも苦しさもなくなったから、あとは楽しく過ごすだけ。別にこういう風に生きなければならないという自分ルールもない。

 

これは独自の方法論であって、僕の素朴が義務だけでは生きられないからこういう風になっている。現実的にも色々考えて試行錯誤するのだが、その考えたことが選択肢の枠ともしていない。考えが及ばない領域は当たり前にある。

 

 

 

やれやれ。

 

誕生日プレゼントに村上さんの新刊をいただいた。

早々読み切った人の感想文は読み流した。読み終わった後にきちんと読むつもり。

 

最初の方を読んだ印象だと、壁に囲まれた街という世界は、村上さんの原型であって特に新刊という感じがない。世界の終わりとハードボイルドワンダーランドの世界の終わりパートをだけをブラッシュアップして書いているのではないかって。獣って街に出て来たし、夢読みの職業も出てきている。だいぶ昔だから新刊としても読めるというのもあり。

 

論文なら引用しないと説明できないのは分かる。

 

ただ、読書感想文でコピペしたら怒られなかったっけ。風潮としては引用してここが良かったというのを貼るのは問題ないが、当人の言葉ではないものが添付されているのはどれだけそこが良いと感じていたしても、画像でしかないよなって。いや、ここが良かったのだという印象を添付しているというその人の世界が読み取れるということはある。ただ、文字量に換算してないかという印象もあり。

 

あんまりぶっちゃけるとアレなのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。