無知に至る

 

 

遅いシフトで家を出る頃には台風は去っていた。通り過ぎた後の晴天は暑いと決め込んでいたら台風と共に夏も去ったのではというくらいの涼しさ。むしろちょっと肌寒くて歩くのにちょうど良い。

 

この季節のお気に入りスポットである公園の脇に咲く白い彼岸花も健在。先週末に出勤した時には咲いていなかったから、台風の最中に咲いたのか。恋人さんが土曜の日記を読んで私も見たかったと言っておったから、明日か明後日には見せられる。本日深夜に到着予定。

 

 

仕事。連休明けは声が全然出ない。声も毎日出さないと鈍るのか。我ながらがさがさで聞き苦しい声だったはず。ただ、ここの所で想ったのは、毎日声を発していたところで、自分の言葉で話せるようにはならないよなということ。仕事で使う発話の言語野はあくまで相手に通じる説明的な言葉であって、説明される対象は自身でもないし。かといって、自分の言葉で発話できるようになることが人生上必須なのかというと、そこまででもない気がする。

 

正しいことが在るとして、そこに至ってしまえば先も拡がりもないから迷子できない。個人的にはこういう風に自分に言葉で辿り着くのはまっぴらごめんである。正誤とは無関係な自分で居られればそれで良き。他人と争う必要もないし、重ね合わせの同時性だし。

 

 

あと、少しだけ無知の概念にも触る。何が知らないかも分かっていないという状態は無知にすら至っていないよなって。何かを知ろうとできる時点でそれは知らないことが何なのかを把握できている「無知」と言えるが、知っている世界の中だけで過ごして、知らない世界を排除するのは無知とは違う。では、なんと呼ぶのか。ある意味信仰と呼べそう。

 

具体的にそういう人が居る訳でもなく、ただそうだろうなぁとよしなしごとが心に浮かんだだけ。発想にほとんど由がない。

 

 

お弁当タイム。

 

日向で食べられる時節はよろしき。オフィスも冷えているから、熱を補給しておかないと。僕の肉はすぐ冷える。歩けばすぐ熱される。基礎代謝はどうなっているのだろうな。昔より循環されている気もする。

 

お腹に溜らないように、なるべくゆっくりいっぱい噛むこと意識する。我ながら自分が作るご飯は美味しい。で、ゆっくり食べても食べなくても、食べ終わる時間はほとんど変わらなかった。そんなものだ。急ぐ、焦るという意識は、それほど人を加速させないし、いっぱい食べたとしてもエネルギーに変換されるとは限らない。

 

ゆっくり食べると、血糖値が急上昇しないからか、昼ご飯のあとも眠くなかった。

いや、昨日たくさん寝たからかもしれない。一義に確定できないのが人というもの。

 

そんなこんな、何故かチキンナゲットが食べたくなったから、鶏むねのひき肉を買ってポリ袋で捏ねて作った。そもそもチキンナゲットの味のイメージもあやふやだったが、なかなかの完成度。器が綺麗な感じだったらここに貼っても良かった。いや、この焼き色の唐揚げ感はナゲットにも見えない。直に食べさせられない人にとっては視覚情報が全てだから、見映えが違うとどうにもならない。

 

とはいえ、この味の濃さはまごうことなきナゲットのイメージ。ただ、お弁当にもするから、もう少し嵩増しと味の緩和があった方が良い。ということで、オリーブオイルでピーマンとキャベツを炒める。味付けを全くしないと、味が離れすぎる(食ワングランプリ参照)から、クレイジーソルトを少しだけかけて、ピーマンの苦みとキャベツの甘味でバランスを取る。

 

すげー美味しいから、お腹空かしてやってきてくれる恋人さんに振る舞おう。

もっといっぱい作っとけよとさっき怒られた。笑

 

 

ここから哲学。

 

料理は確かに主体から一方通行で捉えれば、食べ物である。でも、何を食べるかは自分の意志で決められるという視点から見れば、自分に対して振る舞う物でもある。ある意味供物にもなり得る。ご褒美とか類似っぽい。

 

この辺りは基本的には未分離だと想う。肉体に存在の重きを置いていれば当たり前であって、現代のマジョリティの存在観ではある。でもこれだと、自分の肉体が求めているご飯と、意識が習慣として食べなきゃいけないご飯が曖昧に混ざる。

 

習慣的ご飯というのは、成長期の自分の肉体が伸びたり肥えたりするためのエネルギー摂取のための三食ご飯。食べるって別に休息でもないし、成長+肉体の保持のためには三食くらい食べておかないといけないということだとしている。はみ出したカロリーは貯金になるが、その貯金を消化するような運動もないのであれば、エネルギー補給が過剰になっている。

 

僕も美味しい物を食べるのは好きだが、空腹を満たすことと、美味しさをかみしめることは別のこと。馬刺しが好きです。

 

やれやれ。

 

味わいを振る舞うという作り手側の視界になると、いっぱい食べてもらうから良きとはならないはず。いや、飲食店みたいな感覚で、文章がたくさんの人に食べてもらえば良いという作り方もあるのかもしれないが、いったいそこで何を振る舞っているのだろうとは思う。

 

自分自身を振る舞っている訳でもないし、あくまで他から得た情報を加工していることが多いように見える。材料がないと作品は無いのは当たり前だが、ご飯とか建築物というイメージなのだろうか。

 

僕はなんというか、お裾分けみたいなイメージ。

この文章が誰にとっても美味しかったらむしろ嫌である。のど越しがスッキリする文章はビールのように爽快感があるかもしれないけど、読んだ人の中には何も残らない。

 

かといって誰かに残りたいという訳でもなく。

なんか変な人には勝手に読まれているだろうし、居なくなったとしても僕は僕を発見してくれた人のことは勝手に覚えて忘れないし。

 

おそらく、言葉に対する姿勢がちょっと違う。

僕の文章野は遊んでいるから、何か違うって言われても良い。否定だけでなく発展があるのであれば。割と矛盾だらけだから否定しようと想えばできるはず。

 

あと、僕の存在自体、別に言葉に化体したり言葉を信仰したりしている訳でもないということ。捉える存在において言葉が分かり易いツールだから、誰かの言葉と存在を一致させたくなる気分にもなりがち。弱まっている時ほどそうなる。

 

言葉はどんな学者も解明できない混沌だし、誰しもが言葉で自分を表現し切れているものでもないと諦めてしまうとなかなかスッキリしてきているだけ。

 

無理だから言葉の領域でも芸術がある訳で。

 

そういえば、最後。

 

日揮屋さんの記事を読んだ。宵顔さんもここに振る舞っていたはず。

日記を読む、書くことで世界が優しくなるとのこと。分かりみ。無知の知が拡がるのが他人のプライベート日記を読む作用。

 

そろそろ迎えるのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。