胃のまま

 

 

 

昨日は一升瓶を空けたので本日はビールのみ飲み。エビス美味しいが、一番搾りが安心する。

背徳感とか投げ槍とか非現実のためでなく単に飲むお酒はとても美味しい。

 

昨日運動神経の流れで頭の柔らかさも発展しているという話を書くつもりだったのだが、一升瓶を飲み干して文章脳が力尽きた。その後も頑張ったらしい。

 

倫理観とか社会観とか自己観とか学問とかに対する考察が随分柔らかくなっている昨今。ただ正解の知があるとか、自分の感覚が他人にとっても正しいなんてことはないし切り分けるべき。一見で自分が分からないことでも分からないから駄目だとしない。

 

旅館に行くとTの形を作ってみようという4つの積み木のようなブロックの知育教材がある。Tはすぐできるのだが、その先がなかなかできない。前に行ったときに、もっと発想を逆転させるようにしないと解けないと言われた。今回は4つか5つか完成した。随分柔らかくなったものだ。ポイントは、面積が大きく形がややこしいブロックから組み立てること。もともと柔らかかったが、固くなることが大人だという偏見がインストールされていたのかもしれない。

 

自分の積み上げた見識を覆すことって、アイデンティティにもかかることだから、軽々にそれをすれば良いですよとは言えない。梯子なのか部屋なのかイメージはなんでも良いけれど、自己観の中には自分がどう物事を判断して処理するかということも含まれる訳で、Tブロックをどう組み立てるとか。僕は自分の存在をこういうところから逆算して捉えていないから、もっと面白くなるのであらば従来の自分が崩れても問題がない。

 

相棒で、30年くらい一緒に仕事していた監督が自分の名前を憶えてなかったことを動機に殺してしてしまった話があった。監督はその人の存在を職人として捉えて居て、名前は不要なくらい信頼していたのに、犯人は仕事の前の自分のことも見てほしかったらしい。

 

杉下さんが、話しの筋とは関係ないところで海が綺麗ですねって言うシーンで、満月さんが、硯と一緒だと言う。たしかに話の筋を気にしていない発話をする。いいオトナなので普通のところではやらないが。

 

相棒ファンは警察官という公務員でありながら無軌道になる主人公達が好きなのだろうか。暴れん坊将軍とちょっと似てそう。

 

無軌道な自分を赦されている。

 

本屋さんに行く予定を覆し、運試し場で一日過ごし、大負けして2人して笑う。

一緒に打つと僕がだいたい負けるのだが、隣で打っているだけで楽しいからかもしれぬ。当たりそうな台より並べる題を選ぶから、なんも変動ないなーでも良い。どうせ1人で行けば勝つだろうしというスタンス。

 

そうして、お宿に早めに着いてお散歩。

 

夜ご飯場所を探し求めて辿りついた席は、宴会している人達の隅だった。僕は全然気にならなかったが、満月さんには障っていた。僕も昔はこういうところ駄目だったはず。音が障るというか、人が醸す雰囲気が障る。話されている音があると気になるし読もうとしてしまうし、音量の波も気になる。

 

ほとんどどうでも良くなっているのも柔らかさなのかも。

 

過敏なところをどこまで使うかを選ばないといけない。

世に言うHSPの人には負けないくらいの敏感感覚だと思うが、それを他責にするつもりもない。感覚自体は必然でも自然でもないし、だから他人に投げても良いものでもない。

 

感動の話。

本日ちらっと読んだ記事の中で、人文学の学生っぽい人が、物語に感動するのは自分の実体験と繋がっているからで、感動を拡げるには体感の経験則を拡げないといけないという話があった。ほんまかというか、そういう風に物語は読むものではない気がする。読み方は否定しないが、こういう風に読む限り、結局のところ、印象が自分の中にしかない。

 

ここのホテルには漫画が置いてあって、満月さんがスラムダンクの最後の6巻も持って上がって来たものだから、倍速で読み返した。僕はバスケしたことないが、スラムダンクに感動できる。バスケ漫画ではHarlembeatというのも好き。

 

特に推しも居ないが、最後のハイタッチはヤバイ。

個人的に好きなシーンは、桜木がシュート合宿を終えた後に流川のシュートを見たときに完成度の高さに気付いた画。人の凄さにほんとうに気付くためには、自分でやってみないといけない。

 

という感動は別にそのスポーツをしてなくてもできるのだから、倫理観でも。

 

 

僕にとって人は人であって、世界に影響を受け続けても自分であるからガイド的な存在に距離感はない。

 

この意味で僕を人と捉えることは難しい。なんかちょろいと思われる節もあり、接すれば接する程自分の世界に含まれないと気付かれる。それでも良いと想えるのがきっと愛。

 

 

やれやれ。

 

なので。僕は基本的に自分を定期的に読み物にしてくれている人に対して単なる尊重すべき他人としか思っていないし、それによって書くモチベーションが左右されている訳でもない。お裾分けしているだけのことにフォローされたところで、存在が認証されている訳でもないし、読みやすいように書くつもりないし。

 

死にたがっている人がネットの賞賛でまだ生きたいとはならないのと同じ。

 

僕は僕文章を読めるような人向けにしか書いていないし、フォローとかスキとかがあったら、お、と思うのみ。

 

普通の他人の日記を読む動機であれば僕の文体は遊び惚けているから、共感としてスキは押せないはす。それでも読んでいる人が居るのだから、文章の好き嫌いの人それぞれか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。