感知

 

 

副菜が切れて次は何にしようかとなる。問答すると白和えが良いとのこと。ほうれん草と人参と豆腐を買って、サクッと作った。磨り胡麻は炒り胡麻から作った方が良いのだが、簡略版にした。砂糖と醤油では心もとないから白だしも追加。時短でも美味しい。主菜は鶏胸肉にクレージーソルトと片栗粉をまぶして最終的に酢鶏みたいなイメージ。片栗粉をまとった鶏肉って何かのお菓子に似ている。わらび餅、ちと違う。

 

ここに目玉焼き半分が乗っかった、ベビーリーフが加わる夜ご飯。

 

単なる平日の食生活はまぁまぁきちんとしているというレポート。

運試しのイメトレも忘れない。

 

本日の最初に戻って。

変な夢を見た。夢とは元来変なものではあるが。

 

第一部。

中学生の時の軟式野球部の同級生に殺意をもって追い回される。夢の中で夢を見るのも多いが、追いかけられるのもなかなか多い。今回は殺意もある。実録では特に何かされたとかはない。乱暴でなんか嫌だったのはあるが、普通の中学生の水準。穿って考えれば精神は殺しにかかられていたかもしれない。まぁでも中学生としては普通の所作とも言えなくもない。教室の中における陣取りみたいな。

 

まともに接したなと思う男性は、野球部のキャプテンくらいか。僕のような下々のスコアラーに何故か一目を置いてくれた。オトナになって飲み会やら草野球をしたときも何故かそんな感じ。ヒエラルキー中位の女性陣とは割とまともに話せた(特に恋愛沙汰もなく)。同じ枠で過ごしていた人達は、単に残り物のごった煮という感じで、放課後ぐだぐだ集まっていただけ。図書室に籠っておけば良かったと今なら思うが、田舎過ぎてそれをしても良いという世界が無かったのだよな。なんだかんだ読んでいたのだが、どのタイミングで読んでいたのかは不明。記憶上の暗点というか死角の中で読んでいたらしい。

 

意識的に自分を方向づけた影響力を持った本って無いのだが、こういう記憶に出てこない本の方が物心付く前の環境と同じくらいの影響がありそう。

 

ともあれ。最終的に、抽象的な世界に至る。比喩的に言えばドラえもんで言うところののび太を気に入らないジャイアンみたいな関係性が連綿と続いて行くという時系列を船に乗って川を乗って下っていく。惨殺された標本も川岸に置いてあってなかなかのグロさ。これをグレープフルーツ理論というとまとめられて、二度寝前にそんな理論どこかで読んだっけって調べた。もちろんそんなことはなく、オリジナルだった。歴史は繰り返すというか、どうしようもなく気に入ることができない存在は存在しうるという話。僕はもちろんのび太側。ジャイアン側にもなれるかもしれないが、しない。

 

二部は小学校の校庭とか教室が出てきて、どこかの年の先生が出てきた。

何かの職業訓練のような教室で座学をしている。自己紹介をしているみたいだが僕は居眠りしていて、後からその話を聞く。あいつはやばいみたいな意味合いで、ある人物は人の命を奪うような自動車事故を起こして、賠償のためにお金が要るという動機を自己紹介で表明したらしい。普通は言わんやろって。

 

この夢から、僕が子育てする世界線で、こういう普通は言わないことを言わないように教育するって凄く難しいよなと思った。そもそも普通は更新されていっているし、悪い意味でなくても普通は言えないことがあるし。それを言ったら相手が傷付くのだよと同じくらい、それを言ったら好意を抱かせてしまうよというのも教える領域だと思わなくもない。特に娘だったら。他の人が見えてないところが見えてしまうと言いたくなってしまうが、発話は当たり障りなくとか。

 

まぁ教育ってそういう精神的なところより物体的なところでいっぱいいっぱいだとは想像する。親個人の生活とユニット単位の生活と。あと、子供の最先端の親世代が着いていけないという原理もありそう。メタバースの本によると、今の10代の人達はゲームとSNSが同期した世界で遊んでいるとかなんとか。僕がそれほどこの遊び場に興味が無いのは、技術が変わっただけで特にそのものは変わってないというところ。大勢と関わるのは教室でもしんどかった。

 

良い夢を見たな。

 

さておき。

 

仕事場に向かう道中、やっと稲刈りが半分終わっていた田んぼ。何故半分なのかは不明だが何か意味があるのだろう。昼休憩は霧雨。今のシフトだと休憩室に大勢人が居るから、霧雨でも公園でお弁当を食べることを強行した。血糖値が一気に上がってしんどさを感じたが、せまっ苦しいところで食べるよりは良いという天秤。

 

仕事が終わったあとも雨が降っていたから、電車で1駅乗ることにする。スーパーに寄った帰り道、湿度が高いからか、濃密な金木犀臭。金木犀の匂いが分からないというフレーズを見たのだが、そんなことあるのか。いや、ありうる。

 

嗅覚って風情を感じる前に危機感知のための器官だから、この前提がない安全な空間で生きていると、匂いに過敏にならないのかもしれない。VRの世界は匂いまで再現できてないだろうし。運試し場でも風という触感が限度。

 

もちろん、身近な匂い以外が無臭な世界でも人は生きていける。

虫とか鳥の声も聞こえなくなる世界は都会に生きている人には近いのかもしれない。

 

音だって聞くものではなく、世界から聞こえてくるものだった。

今やどんな音を聞くかも選択できる。無音だって立派な音。

 

言葉が無いのも言葉。

 

やれやれ。

 

ふと、ちょっと若い人の文章が今までとちょっと変わっている気がしないでもないなという仕事場での感触。あくまで主観を語る。いや、これって文章を書くことが訓練されていないだけなのかもという全年齢的なものかもしれないとは思わなくない。

 

僕も人生上文章を訓練する場はなかったし。今日のお客さんで発話だったら言いたいこと言えるけど、文章ではどう書けば良いか分からないとう人も居た。

 

まぁ、仕事の記録は誰かが読んだ時に情報のポイントが押さえられているかであって、自分の気持ちを伝えるところではないし、その文章に気持ちを載せるって職人芸。

 

あれ、何の話だっけ。

 

そもそも表現ってなんだっけ。

 

(可動域)

 

文章に言葉以外の余白があるのが美味しい文章。

時代には合ってないと思われるが、文字通りの言葉だけでしか読めないのって、書いている個人が居ない。まぁ居なくなりたい量産型の文章体に成りたいのであれば、それで良いと思うし、そういう文章(存在)に需要があるのだろうし、問題ない。

 

僕としては美味しくないけども。

 

僕ももっと頑張って自分に成ろう。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。