むひてい

 

 

運のリハビリの1日。時間は無為にこそ遣うもの。楽しければそれで良し。

 

 

本日は満月さんが朝早く戻って行った。昨日深夜に満月さん印の美味しいカレーを食べたため2人共眠りが浅い。僕は夢の中でも何か食べていたらしい。自覚症状として夢は見ていない。

 

炊飯器に余っていたご飯で納豆かけごはんを昼前に食べて以来何も食べなかった。

寝不足も満腹中枢もバグらせる様だからあえてカット。コーヒーと水で水分は採った。

 

運の運動時間は省略。この時間とお金で何か他のことができただろうみたいな思想はない。別に時間がなくても無為に本を読んでいるし、お金がなくても楽しんで居る。

 

「星の子」の巻末にある小川さんとの対談を読んで、「むらさきスカートの女」の末尾の一人語りが途中。西尾さんも確かそうだが、人と接することがない仕事に就きたいという発想が共通している模様。書くのがしんどいみたいなことも書いているが、なんというかしんどさってある意味生の実感にもなるから、ネガティブな叙述とは裏腹に生き生きと生きているのかもしれない。当人にとってはもっと楽に生きたいというのはありそうだが、人生劇場を謳歌できない楽もしんどいのではないか。

 

 

謳歌するとは、真面目な状況で小躍りできること(メタファー)。

あらねばとかべきとかではない。案外なんとかなる。これは楽観から来ていない気がする。

 

 

運試し場で遊んで帰る。満月さんが早めに寝るだろうから通話時間の為に早く書き終わらねばというという無意識が働いたのか、ほどほどで負けを収めた。主観的には今日はもう充分という感じ。

 

帰ってから、2日目のカレーにいったん火を入れる。明日カレーうどんにするつもり。冷凍しておけばと言われたため、あとで冷凍しよう。

 

どうでも良い自分の性質。人の因果に干渉することをあまり良しとしていないのかもしれない。昨日満月さんがカレーを温めていて、僕はお風呂読書中。ぐつぐつしている鍋とアイフォンで交通ルートの検索に傾注している彼女を鑑みて、「このままではちょっと焦げるだろうな」という想像ができているにも限らず放置した。もちろんそこで非を詰める訳でもないし洗うのは僕だし、僕の因果として別の方向にする声かけもできたのに。

 

気付いていて言わないのはかなり罪深い。たしかに、傾向としてこのタイミングでこの言動をすれば相手の世界線が移動するだろうなというのが感覚的に分かることがあって、それでもあえてそれをしないという規則があった。世界が外からある感じ。

 

でも、別にここは今やどうでも良くなっているはず。もっと自分優位を赦している。語り口がおかしいのは、僕が自身を特に言葉とか知識で把握していない(無論他人のことも)から。

しかし、なんでスルーしたのだろう。

 

考察するに、満月さんがなんとなく失敗を怖れなくてはいけない人生劇場に生きてきたように見受けられるから、僕に対して失敗しても失敗カウントなんてしないよというアピールなのかもしれないなという解釈が出てくる。おっちょこちょいエピソードを語れという方向の話にちょうど向いたのも濁す。

 

ただ見ているだけですよ、特に問題ないよって。

捨てられるまでは捨てないし、失敗しても良い。

 

(別に本質的に気にしてはなくて単なる口癖なだけかもしれないが、口癖は人の世界観を読むことにおいて大事。僕はありがとうという口癖を再構築している)

 

人って、他人の間違いを恥部のように笑うことが多いから、間違いを指摘されること自体が恥で、指摘することで優位になるという感じがインストールされている。本来は間違いなんてどうでも良くて、その後に間違わないようにできれば良いだけ。

 

鬼の首を取ったように間違いを指摘することを快楽とする人と、次に間違わないように指摘する人は別のことを言っているのに、捉える人が恥としていたらどちらも同じことになる。

 

家庭環境が嫌だったのは、母親が前者の人だから。今は少し丸くなっている。

お姫様先輩も良くお客さんをこういう風にネタにする。特に言葉の間違い。あることを示す正式用語と違うと、鬼の首を取ったように笑い話にする。僕は正式用語でなくても疎通ができれば良いという立場だから、こういう意味では用語に特に信頼を置いていないとも言えるし、他人の言葉遣い間違いについては面白くもなんともない。明日は我が身くらいな感じ。正式用語信者に詰問されるわーって。

 

マルクスさんが「人はそれほど過去を持っていない」みたいに書いていて確かにそうだよなって。自分が世界に対して無知で新参者だったことを忘れてもともと古参だったように振る舞える。今のところ拙くない時間と場所に居るだけなのに。

 

言葉と言えば、最終言語の木田元さんがドイツ語の原文でハイデガーのさんの「存在と時間」を読んだと言うエビソードがあって、僕もドイツ語やるか―となっている。どうせ明日文法書を買ってくる。

 

ただ、僕が学者肌ではないなぁとなるのが、知るために費やす時間の概念。

ちゃらんぽらんと生活しているが、昔は知識の習得のためにそれこそ毎日何時間もお勉強していた。そういえばどうでも良いが、努力していない人ほど努力への信仰があって、他者にそれを求める気がする。これを勉強しているだったら、飲食も節制してそれだけに全てを費やしているよなみたいな。

 

ドロップアウトしたと見せかけて、僕の頭は学生時代より随分広くなった。びっくりする。

別に勉強時間なんて作ってないし、為すがままで惰性で無く本も読むし記事も読む。当然意志でもない。

 

要は僕にとって使命とか努力とか知識を得る為の欲求みたいなものは不要だった。

マルクスさんのヘーゲルさん論考で、意識の行為が知識だという話がある。意識が動けるのは知識だという風にも読めるし、意識は知識を前提としてしか動けないという風にも。

 

個人的には、意識を人間からこの部分だけ取り分けるって不可能で、意識は知っていることから自意識を形成しているという感じ。別に誰かが当人のことを完全に把握している訳でもない。知っていると想える意識は単なる知ったぶり。

 

自分が生きてきたデータが完全に記録されている外部媒体があったとしても、自分のことは絶対分からない。他者として知識になることはありうる。

 

また明日も運動してこよう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。