うたかた

 

 

 

厳密な今は表現できないし認識もできない。もちろん意識も。

瞬間も瞬きで区切られているからこそ。

 

 

朝活というか、いつも読んでいる人の記事が更新されていなかったから、活字を求めてkindle読み放題を一冊ダウンロードして、10%ちょっと読んだ。深層学習が何故正解を出せるのかという入門書。関数の話が出てくる。そういえばウィトゲンシュタインさんも真理関数という言葉を用いていた。何か繋がりがあるに違いない。関数の当て字はもともと函数だったという話をどこかで読んだが、何かを函に入れたら法則性がある別のものが出てくるという意味ではこのままの方が分かり易かったような。

 

数学とか統計学とかコンピュータが扱っている論理は最近熱い分野。高校数学+αの「位置を微分したら速度になる」という記述もさっぱりだったが、グラフって移動しているという表現であって、その移動の観念的な今を切り取ってどれだけ動こうとしているのかという意味で瞬間速度を解釈しているという意味なら分からなくもない。積分微分が同じ地平の操作であるというのはまだいまいち。面積と速度。まぁ読んでいたらそのうち分かるか。

 

なんだかお勉強していたころより一日中読んでいる気がする。

文字だけでもなく。

 

 

仕事。

 

なんとなく身が重かった。水曜日の気分だったが実際はまだ火曜でびっくり。だいたい水曜日に火曜日はどこ行ったのだとなっていたから、火曜日さんどうもどうもとなる。この辺りから楽しくなってきたのはともかくとして。

 

人の本質って余裕がない時と、下に対する時に垣間見えるのだなと思った。

同期がやんわり新人さんに当たりが強い。別に良い顔しなくても良いから無理もないという当たり前の感覚も分かるのだが、この当たり前は人類が発展してこられなかった一因なのでは(壮大)。プライベートでは関わりたくねぇなと思った。僕が上と見られているからある程度尊重されているだけ。これもともかく。

 

なんだか、先生の解説のハードルが僕の新人時より上がっている気がする。そこまで細かく指示されたことがない。駆け引きとか想像力を働かし方とか懇切過ぎて逆に難解。出来事ベースで仕事している人には難しいような。まぁ聞こえてくるぶんには面白いけれども、何かトリガーが外れたような感じ。僕に聞こえてなかっただけという説もある。

 

音と言えば、両隣の隣人が深夜早朝問わず洗濯機を回す現象としての音は変わらなくても、ストレスとなることが無くなっている。ちょっと前までは相手の事情を想像して我慢しようかという微ストレスだったが、今は音は聞こえてくるだけであって、それに対してどう捉えるかは自由だし、寝る時はそのまま寝れば良いという感じ。

 

我慢が無い。理容院の店員さんがもっとゲームしたいけど、生活とか筋トレとかで時間が確保できない、まぁオトナになるって我慢することですよねという発言をしていた。当たり前としては分かるのだが、我慢できることが大人の定義とすると、あんまり洗練されていないような。そもそも我慢に価値があるという価値観に我慢がならなくなって良いのが大人という気もする。

 

お勉強も別に未來の為に我慢してするものではない。

もともとが我慢して机に向かうことがお勉強みたいな価値観だからそうなっているだけなような。

 

僕はこういう不自由な大人で居るのは嫌なので、勝手に無駄とされるものばかり収集している。集めただけで満足するのでもなく、きちんと実践にフィードバックするけれども。

 

 

お昼時間。

公園の人工池に檸檬が浮かんでいる。きっと爆弾だ。近づいて見たら檸檬ではなくて、単なる黄色いボール状の物体だった、黄色いメッキが剥がれていたから単なるボールでもない。むしろもっと爆弾だ。

 

という物事を眺めてつつお弁当を食べて、カフェオレを飲みながら二服した後に歩いていているときに、「覚悟」という言葉が浮かんだ。どこかからインストールされた外付けの価値観に従わずに一生ちゃらんぽらんな自分で生きていく覚悟。世界が美しく見えるのはこの自分の時。全然逆張りではない、ただの運動。

 

 

運動と言えば、本日読み進めていた漫画は「フットボールネーション」という、日本のサッカー界に爆弾を落としているのではないかという感じ。もも裏の筋肉を使って歩くという実践はここから採り入れた動きで、正しい歩き方とか走り方も誰も教えてくれなかったよなぁって。もともと持ち合わせていた才能だけが見られる。

 

僕の個人的恥部体験で、中学校での体験入部時の軟式野球のキャッチボールで、鼻に軟球が激突して鼻血を出して倒れたことがあった。高校の硬式テニス部ではボールへの距離感問題無かったのに軟式野球部ではフライもゴロも取れない。おそらく人から見られるとカクカクしてしまうという性質によるものだったと解釈。当時はなんで自分は動けないのだろうと想っていた。

 

一対一ならよく動ける。

官能的になりそうだから省略。

 

 

やれやれ。

 

思索パートを入れるような、入れないような気分。

 

ちらっと見た記事で、自分には文章力があるという根拠が上司に添削されないというのがあって、報告文書の範囲であれば読みやすいのだろうなと想う。でもそういう人が書いた文章はあんまり美味しくない。僕が報告文章を書ける文章力があるのかは度外視して。書こうと想えば書けそうな気もしないでもない。

 

伝えようと意志されている言葉ってなんだかカクカクしているような。

僕がゆるゆるしているだけなのだが。

 

もうそろそろおしまい時間なので1つだけ。

 

ルソーの社会契約論って知識としては知っている人がほとんどだろう。でも、中身を読んだことがある人はどれだけいるのか。僕は何故か都市史みたいな本で記述が引用されている。

 

所有が個人にとってもっとも大事だと言っている人だから、社会契約も間借りさせてやっているいるという感覚から来ているのだろうな。民主主義をスローガンにしている誰しもが誰かと協力する感覚がなさそうなのがここ由来ぽい。

 

もちろん良し悪しの話でもない。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。