何はなくとも
明日大阪で仕事なのに、まだ愛知で日記を書いている。
毎日が宴会だが、明日の自分は大丈夫だろうか、始発間際に起きて帰ってアイロンがけしてお仕事。
こういう状況をかつては不安としていただろうが、いまや単なる楽しみである。
お酒を飲んできたが、今は水とコーヒーをお供に日記を書いている。それにしても満月さんがいれてくれたコーヒーはうまい。
皆さん元気で過ごしているだろうか。
見知らぬ人と言えばそうだが、無因果で皆好きです。僕を読んでくれているという条件でも全くない。僕に好かれても無為だなというのとも無関係。
こういう条件関係を最近思索している。
Kindle読み放題で刑法のコメンタールという1条ずつ解説してる本があってワクテカ。
条件関係に根差した(社会的)因果関係を持つ行為を統制するのが最低限の国家権力の行使だという世界観はしょうがないと思う。個人的には社会とかではない個人の心を傷つける言動は基本的にアウトだと思っているが、このアウトさでもって、社会から排除するとも違くて、どれだけ意識的が広いかということでしかない。
本日満月さんとラーメン屋さんに行ってきたのだが、やんちゃそうな若者3人組が、帰り際に「ごちそうさまでした」と言っていたのが気持ち良かった。お金を払っているから食べられて当たり前、なんてことはない。これって、別に生産者が居る当たり前を意識できることを越えて、当人の精神衛生上も良い。条件関係での既定って基本的に不自由なのだよな。
不自由の世界が当たり前だと思うと、しんどいのが当たり前になるし、世界にあんまり感謝ができないようになる。自分が何かしたから返ってくるのだという世界観。
こういうのはスピリチュアル系にも寄っているのだが、なんとなく「小説のストラテジー」における創作物の書き方読み方みたいなのにも通じてそう。
個人的に、小説って一意に読み取れる正解があると思っていないから、自分が読んだ感想を自分の中においても正しい読み方としていない。そう読めたとうだけだし、誰かとここを共有してどうなんだと思うから、読書層とも特に共鳴しない。
もっと現実的なところに寄せると、人って文章をあんまり読めないのだろうなという感じ。おそらく書き慣れていた人でも自分が書いていることが一意に伝わるとしているのであれば同じ。基本的には見えるように読むほど馴れていないから、文字の語彙に引っ張られて、読みたいように自分の世界で読んでしまう。
あんまり細分化されていないけど、言葉の読み方って味覚の感じ方と同じくらいそれぞれなような。だって、読んだ言葉って、参照しないとコピペできないし、その言葉が何を読み取ったかって非言語だし。
この解釈を無理やり一括りにして因果関係を創作したのが、一般語用における感情とか不安とかなんだかなのだろうな。不満を満足する為に人が生きないといけないって不自由過ぎないか。
前置きみたいな文量ですが、ここまで。
元気でありますように。
元気って元の氣なのか。なるほど。
おやすみなさい。
良い夢を。