色合い

 

 

 

だいたい自分事のようになって、自分のせいじゃないかとなるのは調子が悪いのではなく、境界があいまいになるのは調子が良いという説が浮かぶ。その情報の解釈が底に落ちる方向だと調子が悪い。処理落ちも。ただ、情報量が多いということはその分反応できるということだしなぁと。器の許容量を増やせばもっと動けそう。当然良いことばかりとはならない。

 

気温は低いが天気が良い出勤の昼前。晴れ過ぎるとカラスは活動しないのか、同じ時間帯と思えないほど閑散としている元畑の更地。黒猫の置物もなかったから置物でもなかったらしい。もう一回見かける世界線はあるのだろうか。

 

 

ちょっと戻って。朝活で洗濯機を回しながらうとうとする。早めに起きて文章を漁る。Kindle読み放題で岩波文庫フェアをやっていて、「大学・中庸」を見つける。勉強とは人生をどう過ごすのかということだ、みたいなフレーズ。やっぱりそうだよな。メインは柄谷さんの「世界史の構造」。ダウンロードしただけでまだ1文字も読んでいない。楽しみ。洗濯が終わったのが出発する20分くらい前で、全く脱水ができていなかった。びちょびちょのまま干す。困ったなとは全く思わない。むしろここまで動いてくれてご苦労様でしたという感謝の気分。帰った頃に乾いていなかったらコインランドリーに駆け込めば良い。

 

 

仕事。問題なく終わる。ふと、お弁当を食べて一服しているとき、退職する時の挨拶をそれぞれの職場の人にどう言おうかなという構想が浮かんだ。直近で辞めて行った先輩3名のうち2名は3年以上働いているのに何の挨拶もなく去ったから別にこの手法でも良いのだが、話そうとすれば個別に挨拶はある。特にプライベートでは全く関わっていないくても仕事上の人格に対して。基本的に通話の仕事はここでしか経験できなかっただろうなという感謝しかない。いい経験させて貰いました。

 

内容が内容だからフローチャートを作成できないというところがきっと良かった。マニュアルに寛容。マニュアル重視なところは、マニュアル文字をどれだけ感情(抑揚)付けて読めるかだから、ハードル高い。なんでそんな奴がそんな仕事を選んだのかというと特に何もない。事務をしたかったらたまたまこの仕事に邂逅したような感じ。全然事務じゃなかった。今後このスキルが必要になるかは知らないが、仕事上ではなく日常生活で活用できそう。

 

という感じで終わりが近くなったところで、手抜きはない。手抜きを何とするか問題だが、まだこの仕事で新しいことを習得したり、自分がきちんと分かっていない部分を検証したりしている。理解って知識が増えていくところでは不十分で、その知識のそれぞれが本質的にどう違うかが分かること。そこまで至ればどんなところでも応用できるような手触り。

 

とか言いつつ、kindle読み放題でもう1冊見つけたロシアの数学問題の翻訳の第1問にも頭が動いていた。僕は集中したら成果が出せるというメカニズム信者ではないから問題ない。集中しているという意識が在るところって集中できていないということだし。

 

その問題とはコップにある細胞を1個入れます。その細胞は1秒後には2個に増える性質を持っています。増えた細胞も同じ性質です。60秒後にコップがいっぱいになりました。細胞がコップの半分だったのはいつでしょうという問い。

 

2のn乗で60乗の半分ってどの量だってぐるぐるしていたのだが、なんのことは無い。1秒毎に倍に増えるのだから、いっぱいの半分なのは60秒後の1秒前。答え見ていないから違うと恥ずかしいのだが、理屈ではそうなるはず。これ4倍だったらどうなるのだろうとか楽しいな。ちなみにExcelさんに2の60乗を計算(=2^60)してもらおうとしたらエラーになった。

 

1問目でこれだから、なかなか濃厚そう。

満月さんが引っ越しで持ってきてくれたクリアー数学のAⅠも面白そう。帽子を2分の1で忘れる忘れん坊の人が3軒お店に行った2軒目で帽子を忘れた確率を計算できることなんて、たしかに実生活では全く役に立たないし、それが分かったことで頭が良くなることもない。

 

ただ、こういうのを今更面白いと感じるところで想ったことは、実生活にも役立ちそう。

 

役に立つ、有用、必要の為に自己に無理強いして収集した情報は自己と分離してしまうから、意識上の記憶として残らないのだよなって。いや、ここが大事だと思う人は大事に積み上げて自己を確立していくのかもしれないが、僕はそもそも自己を確立するために世界を食べていないから、当たらない。

 

記憶を忘れるという現象も大事なことが抜けるのではなくて、もともと覚えた頃にはそれが大事だという評価はなく、自己と未分離の存在そのものだったからではないかって。「いま」のことは忘れようがない。

 

あくまで個人的な感覚。僕がメモを取れないのはそういうところだった。大事とか重要みたいな情報はすぐ抜けてしまう。例えば人の誕生日とか。大事ということは、自分と離れた「物」的な存在とすることであって分離しているから、自分事にはなり得ない。

 

こうやって脳内に情報を溜めることを記憶とするならば、そりゃあ脳がパンクするから、メカニズム的に忘れて意識できないように調整されるに違いない。記憶は過去の無限の情報から意識が分離する事象だとは思うが、どう在っても全部の自分を把握する容量は意識にはないから、都合良く存在は編集されている。

 

別にここが良い悪いではなく、世界を感得する時に、重要かそうでないかのメガネを通していると、残すことに対して苦痛になるのだろうなって。苦痛をエクスタシーとして生きる人も性癖それぞれだから問題ない。生きがいとか自分がしんどいから仕事しているという感覚になると社会のものさしとしてはどうなのだろうとは思わなくもない。

 

僕はしんどい部分もあるけれど、そのしんどさも醍醐味だし、今後の方針としては、他人の中に存在して場所を取っている僕が全てではないと開示していくこと。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。