言い回し

 

 

朝ごはんはスルーしてお水と牛乳で割るタイプのほろにがカフェモカを飲む。外気に馴れて来たのか湿気が前日より低いのか、それほど汗をかかずにハローワークに到着した。あと1回行けばしばらくはお世話にならないはず。

 

帰りに薬局に寄る。レンチンご飯と歯磨き粉と満月さん用のマスクとこれまた牛乳で割るタイプの抹茶オレを購入。スーパーにはキャラメルラテしか置いていないから、気分で選べるようにしたら楽しいなと。

 

帰って来て採用担当に電話。採用証明書は僕が再就職手当を受給するための申請の他に失業手当を停止するという公的な側面もあるらしく、採用側も要望されたら書くしかない。採用担当の女性はなんとなく柔らかくて話し易いから聞いてみたがそういった知識はあまり無いとのこと。たまたまホームページを見たが15年ほど店長などを勤務した後に現在採用担当を2年程やっているという情報が公開されていた。出世街道だろうか。

 

そうして人事課が担当だから直接メールすれば分かるようにしておくとのこと。

初メールは神経を使う。なんとかメールして対応してくれるとの返信が来た。

 

そういえば、このやり取りをする間に入社の書類を郵送する場合は送付状を必ず付けること、という情報があった。やっちまったかもしれない。ただ、なぜ付けるのかという理由は礼儀というより、どういった書類が入っているかということを分かり易くするためとのこと。だったら、チェックリストが入っていたし送付状を付けるのは無駄な気がする。礼儀が無い人と見られる可能性は無くもないが、送ってしまったものは仕方ない。ペーパーレスということで。

 

その後はレンタカーの予約。

楽天トラベルから検索したが、コンパクトカーと軽自動車の違いが分からない。排気量とかはともかく5人乗りと4人乗りで大きさが違うのだろうなというのはなんとなく想像できる。僕が運転したことがある車は実家で母親が運転していたMRワゴンしかないから、軽自動車で予約した。オプション補償は当然全部付ける。

 

ここでやっと準備がだいたい終わる。

昨日のお刺身とレンチンご飯で丼を作り、残っていた副菜も片付けながら満月さんの学科教本と交通教本とネットでおさらい。明日行くルートはほとんど満月さんが運転している助手席から眺めていたところだから、標識とか踏切の前で一時停止とかはおそらく問題ない。なんなら歩いたルートでもある。割と車優位に道路が造られている感じだから、歩行者から見たデメリットが運転者からすればメリットになる。

 

問題は運転感覚よなぁ。頻繁(とはいえ年単位)で実家に帰っているときは、母親から前に帰ってきたときより上手くなっているという評価をされたことがあったような気がするが、ブランクが半端ない。

 

まぁ、仕事で使うのだから慣れるしかない。

仕事独自の新情報がいっぱい入って来る中に仕事外の懸念があると吸収力が落ちてしまう。

 

 

 

さておき。

 

何か後ろ向きな風味な気がしないでもないが、個人的には運試しがノリノリだから大丈夫な気分。運試し界隈の話をしても微妙だが、無色な気分でおみくじを引くみたいな精神ですると結構上手くいく。ここはあくまで副次的なところであってメインにしようとは思わない。なんだかんだ経験にはならないし。いや、どんなことでも自分に浸透させることは可能か。

 

とはいえ、特に経験重視でもない。

経験が大事なのは当たり前だしそれ自体に疑義はないのだが、経験を自己存在の拠り所にするというのはちと違うという感じ。

 

経験を拠り所にするのは内側ではなく、むしろ外からの話ではなかろうか。

 

全然理解できていない、数学の領域の位相というのが漫画本で出てきた。形を数学的に把握するみたいなことらしく、そこでは球も立方体も同一だとかなんとか。概念として、形はその形であるという外から枠付けられるからその形であるということなのかなって。えらく抽象的。抽象性を厳密に表現するために数学用語(記号)が開発されたのか。

 

漫画の中に、数学には日本語でも特有の語用があるから覚えておけよって優しい数学用語辞典を渡された主人公が日常の人との会話が数学用語になるというエピソードがある。たとえば、「高々」は一般用語ではせいぜいみたいな意味だが、数学だと多くともになるらしい。Gの数で北海道では2.3匹しか見かけなかったというのをたかだかと言う教育学部生の一般人に対して、主人公は数学用語でたかだか2兆匹は居ると表現して、言葉にギャップが起こるという話。あと、自明とか適当とか任意とかもあったな。

 

教育学部には刺激が強すぎた。

 

ただ、これって法学用語にも言えるような。

 

一般用語との乖離で言えば有名なのは悪意とか故意か。悪意は悪気があるとかではなく対象の事実を認識した上で法律行為をしたということで、故意もわざとやったとかではなく認識にかかっている。故意はあんまり変わらないか。刑法で言うところの暴行が犯罪によって違うというのもややこしい。単に殴っただけで強制性交等罪の暴行に当てはまらないのは、目的に至るための手段としての暴行である必要があるから。

 

僕が衝撃だったのは「当然」の遣い方。自然とそうなるという一般的な語感で言えば、法律の規定があるから当然何某の結果になるという流れかと思ったら、法律の明示的な規定がなくても論理的にそうなることをこう表現するらしい。

 

刑法と民法でも用語のニュアンスが違うとかなんとか。

 

 

学問に専門的な語用があるのは当たり前。変な話、どんな領域であっても言葉で体系化された形(領域)を学問と呼ぶのだろうし。これで言ったら哲学とか文学の語用の方がやばそう。ほんとうは一般用語に還元されないかもしれないのに、言葉で表現するしかないからそういう風にしか伝わらない。

 

そもそも一般用語ってどういったものなのかを考える。

少なくとも国語辞典の用語ではない。参照しないと分からないような難しい言葉ではなく、もっとなんというか、社会に浸透している曖昧な言語群なのではないか。

 

曖昧という定義できない言葉だからこそ、言葉を意識しなくてもそれで生きていける。

定義できなくても概念ではあるから、伝達なり疎通は可能であるという括りが一般用語なのでは。具体的な関係であれば、言葉が対象とする物体なり事象なりが特定されるから意識されない。具体的な関係でなくても、特定できるように指示ができれば伝達はできる。だから、表現者の情報を前もって提示するのか。

 

ここまで終わるとこじれた人っぽいが、当人全然こじれていない。

考えるの定義が自分をよりよくするとか、もっと安らかになるとかではないので。

 

世の中もっと考える余地はいっぱいあるなぁという展望でおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。