光合成

 

 

 

喋るヤギが出る夢。僕の視点は色んな所にあって登場しているとも言えない。

面白かった。

 

喋るヤギのシーンは車の中。網の上で鯖が焼かれていて更にその上に何故かパンケーキがあった。車の持ち主ではない登場人物がそのシーンの視点。この車があったシーンのモチーフは小学校の裏庭みたいな場所っぽい。好きだったな。視点を持った人物は里帰りした模様で、しばらく振りに車の持ち主に会ったらしい。ここでご飯を食べて帰ってからもご飯を食べるの。と聞くと、あんまり帰りたくないのだと答えられる。そこに車内のヤギが会話に入ってきて、貴方は知らないだろうけど嫌なことがあったのだよと言っていた。

 

その後も続きのシーンみたい。何処か遠くの場所に複数人が現地集合するとのこと。メイン視点の人はバイクで向かうらしい。他の人は車で向かうが、1人の女性だけ足が無くて皆誘うつもりがないから、連れてって行ってあげればと言われる。

 

ここで面白いのは、その場所にその物語を読んでいる第三者というか編集者みたいな人がいて、未來に苦言を呈している。道中のシーンでこの2人がホテルで別の部屋を取っているのに最終的にくっつくのが納得いかないって。

 

カオス。夢の言語化はもはや創作物なような気がする。

そして、この物語を補てんするのも面白そうという気もした。

 

 

さておき。

 

途中で起きて、少し読み回ってまた寝て起きて、ほっとはちみつラテと水を飲んで出勤。たぶん寒いのだろう。素手もかじかむ。ただ、ユニクロの腹筋バキバキのダウンの上にチェスターコートを重ねる程でもなさげ。お弁当タイムに休憩室に何人か居て、外は晴れていてから冒険して公園で食べることにした。昼過ぎおやつ前くらいの時間帯だがベンチで寛いでいる人は一切居ない。日向ぼっこしているはとぽっぽに囲まれたベンチで食べた。光合成大事。

 

仕事上の変化としては、来週から僕と同期が席替え。同期に研修させるためみたいな意味合いらしい。同期は素直に吸収していく人だと思うし、僕は去る人だし、向かいが有能な新人さんになるし、というか、席の位置はどうでも良い。雑談禁止ではないけども、雑談はそんなに捗らない職場。だから良い。

 

ただ、古参の先輩が来週から席替えか、「お世話になりました」と言ってくれたことにびっくり。こちらこそお世話になりましたと返すしかない。お世話なんぞしていない、むしろちょこちょこ質問しているくらいしかない。たしかに印刷してプリンタに置きっぱなしになっている資料を配ったり、このシフトの休憩時間のタイミングここですけど大丈夫ですかとおせっかいおじさんを発動したりはしたことがあるが、特にお世話とはならないはず。

 

昨日書いていた良い人認定みたいなのが、同期からの評価で出て来た。

硯さんだったら見てくれているだろうと思ってやりましたと言う。別に落ち度でもないしミスでもない領域だし、たしかに観測している部分であるが、だから放置して良いとはならんだろう。硯搾取。笑

 

同期は僕が辞める情報は感知していなさそうだが、去ったらもう少し引き締まるのだろうか。と余計な心配おじさんが発動、しない。昔の繁華街のバーの仕事よりは気楽だろうし。

 

年下上司にも確認と称して仕事の範囲外の情報共有をしているし、そりゃあ自己主張しない仕事観がある人物が居なくなったら寂しいだろうな。そんな契約社員はきっとおらん。

 

こういうのが対価なき遊び(遊戯)ということ。

自分が有能とか優秀とか、とんとどうでも良い。遊びを使う領域は考えないといけないかもしれない。

 

 

 

やれやれ。

 

倫理感で縛られないリニューアルをした方がより朗らかになっているのではなかろうか。

 

交換関係によって未来を安泰にするようにしたいという衝動は、色んな概念の創出によって豊かになっているのは確か。何かをすることによって世界から返って来るという概念は狩猟して移動したことを辞めて定住した農耕民族由来だろうし。文化人類学的考察だと、生贄とかスケープゴートみたいな観念って、人が生きる場所が定まって滞ってきてからだと想う。いまだって炎上とかで生贄を叩くことが善みたいな観念もあるだろうし(そこに熱意を費やす意味が分からない民)。

 

資本主義だけでもなく、あらゆる社会的制度が廃熱みたいな余剰を度外視しているみたいな話があって、なんとなく分かりみ。士農工商には廃熱の受け皿に部落を作ったのだろうし、素朴な学校の教室でも、人のカタチはしているけども、人でなしみたいな存在を作って廃熱を処理している。これが差別だから止めましょうと言ったところで、言葉で理解できない素朴な子供は感覚を読み取るから言葉を排したところで無くならない。

 

最初の文明は地球の自然の循環を滞らせて砂漠化させたらしい。黄河文明とかメソポタミア文明とか。

 

だからと言って、人がガンだという自然主義もなんだかおかしい。

別に視界を拡げる必要もなくて、好きなように主観的人生劇場に生きたら良い。ただ、主観的人生劇場に生きていると見受けられる人が他人を主観的な観測値で評価するのはなんだかおかしい気もする。相手にも当然に主観があるとはなっていないのか?

 

もっと読んで遊ぼう。

 

とりあえずここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。