不明

 

 

 

 

昨日書いた後、もっとどうでも良いことを書きたいのだなと感じた。別に個人的にはどうでも良さの切り分けはないから、外から見たときにというところ。日記はまさにどうでも良いというか観測するだけで影響を受けなくても良いからエネルギー消費がない。観測は受動ではないからエネルギーが遣われるという考え方もありうるか。

 

ただ、そういう垣根で自分の言葉を区分するのもなにかおかしな話だという説。誰にどう観測されてもその区分に従う必要もない。昨日のたわむれもどうでも良さの試みの一部。需要でも供給でもない。

 

お散歩していて思ったのだが、体感は言葉では記録することができなくて、描写できるだけなのだよなというところ。社会というか文化(どちらも実在しない)の営みとしての伝達の為の道具としての言葉で、なんとなく人と自分は同じ言葉で表現できる生活をしているように思われがちだが、体感自体は言葉で括られる量に収まらない。もちろん無理矢理収納することは可能。言葉の話はのちほど。

 

 

さておき。

 

休日は時間を使いつくしたいので仕事日より早く起きる。いや、早く起きた現象をそういう風に描写しているだけであって、別にアラームで起きた訳でもないし、前日に早く起きようと動機した操作もない。うどんと梅干ごはんをまったり食べる。

 

部屋の解約通知ともう1通事務処理の用紙を書きつつ、まどマギの劇場版版を見ながらそれをモチーフにしたスロットをアプリで運試し。運のモニタリングをするだけだから、割とこれで十分かもしれない。射幸的に利益を得るというより、運が良い塩梅の時の方が現実でも良いことが起こりがちかなという推測の検証。人の運の具合ってきっと個別だろうな。

 

という感じで、その後、健康診断で節制して余っていたビール3本を飲みながら会社法をチラ見。ビールはお水、もしくはコーヒーと同じです(アル〇)。個人的な体感だと逃避とかの後ろめたい気持ちを持たずに飲んでいれば問題ないという説。仕事中に飲みたい気分にもならないし。これは煙草も同じ。ないときにはないで過ごせる。問題は呑もうとすれば飲めるという中間領域の時だが、ここでも特に要らない気もする。新幹線ではあんまり吸いたくならない。並んでまで吸う気にならない感じ。

 

ちょっと昼寝(1時間くらい)をして、お酒も抜けたからお出かけ。コンビニで水と煙草と切手を買って、そこから徒歩2分くらいの古書店へ。厳禁戦闘力が覚束ないのだが気にしない。かなり久しぶりに行ったような。運が良い塩梅なのか、久々だからなのかは知らないが中身を吟味するまでもなく迷いなくやってくる。店頭の50円棚は全部背表紙だけが見えるような置き方なのだが1冊だけ誰かが手に取って置き忘れたのか、平置き状になっていた。

 

それが吉本隆明さんの「悲劇の解読」というちくま文庫の本。ラインナップが、太宰治、小林英雄、横光利一芥川龍之介宮沢賢治って吟味するまでもない。満月さんが横光利一を好いているから流用もできる。入ってすぐの100円棚。ずっと読みたいと狙っていた「情報法」のおそらく旧版がある。古くても新しい法領域だから問題ない。買い。2019年出版の新しめの掘り出し物。

 

その横の文学棚にあったブルータスの美味しいコーヒー特集もやってきたがすまんやでとスルーして、大江健三郎。満月さんも含めた僕の狭い世界の中でも3人が何か言及していたから、そろそろ読む時期かということで買う。ずっと読んでこなかったのだが、文学に触れたことがない小学生の時の担任が甥だったという縁があるから、いずれは読むことになっていたのだろうな。「静かな生活」から始まる連作短編小説。文体は読みやすいけれど、社会的には読みにくさがあるのかも。でもそういうのが芥川賞を受賞するのか。知らんけど。

 

 

 

2階に上がって、社会学系の新刊に行ったら、僕が唯一覚えている前に読んだ好きな学者さんの「資本主義のパラドックス」という本があって、これは最近のテーマでもある。古書店としてはちょっとお高い(数百円)だが問題ない。自然科学棚にあった「微分積分学」は正直気になった。これは吟味。冒頭辺りに実数の連続性の証明が書かれていて、これが微積分とどう一致していくのだろうって。ただ、吟味している時点で今日は違うのだろうなとまた今度。読めるようになったらまた出逢えるに違いない。

 

計4冊。お風呂読書の無知の塔が若干新陳代謝。生活に余裕がないと本は買えないという話を流れて来た記事で読んだが、この説には若干賛成。本を消費ではなく浪費の概念で捉えていて、「暇と退屈の倫理学」で言うところの人間的な退屈との折り合いであって、どうでも良い領域だから。

 

 

そうしてスーパーに向かい、貯まっていたポイントでお酒と草ときゅうりとびんちょうマグロのお刺身を購入。まだあと1回分のポイントがあって、今月中に600円分のポイントを使わないと失効するらしい。ポイントを貯めようとするのは本末転倒で、勝手に貯まっているくらいがいい。ポイントのために要らない物を買うのは商業政略に巻き込まれている。

 

帰ってきて取集した本を読みながらきゅうりの浅漬けを作り、お風呂を溜めている間の暇でだしまき卵を作った。何年か前には毎日作っていたからできていたけれど、卵焼きって日常的に作らないと良いカタチにならないな。満月さんに振る舞ったときよりも本日の方がきちんと卵焼きのカタチをしていた。まだ訓練が足りていない。

 

 

ともあれ。

 

本の話。

 

情報法は2章ほど読んだのだが、人間が(社会的)情報的動物だというのは分かりみ。結局のところ、国家が国に流通する情報を制御すべきか、制御できるとすればどこまでなのかというところに至る。別途、国家が情報として保護すべき媒体はという意味で著作権とか特許も出てくるけども。ここで想ったのは法律学関係でもないどうでも良い雑感で、人って言葉に耐性が無いよなって。要は、言語情報をそのまま受け入れてしまいがち。だから名誉毀損とか侮辱罪という犯罪類型がある訳だし、ヘイトスピーチを規制するよりヘイト的な振る舞いを規制すべきなのに、何故か言説が問題になる。騒音とか粘着質な継続的な音声でのPTSDは民法不法行為とか、傷害罪がカバーできそうなところなのに。

 

いまや人は肉体以前に情報で構成されている存在なのか。

 

 

この流れで「悲劇の解読」。吉本さんめっちゃ好きだなというフレーズが冒頭にあって。

 

「言葉というものの正体は、ほんとうはあまりに不明な部分が多すぎる」

たしかに。ここまで言葉を綴っている人でも不明なままなのかぁ。

 

吉本さんは満月さんに紹介されて知ったのだが、肝心の言葉にとって美とは何かという感じのタイトルにまだ出逢えていない。満月さんの引っ越し荷物の中にある可能性にかけよう。対価は「悲劇の解読」との交換。

 

最初は太宰治さんで、ここも面白い。

 

根っこにある、「人間のことが分からない」という部分は体験から類推できないから詰まらないと思った人は去っていくし、別物として興味を持った人は退場に遭遇するみたいな。昔、人間失格の感想文で、単なる思春期のこじれの延長みたいに評していた文章を眺めたことがあって、ほんまにそうか(はてな)となっていたのだが、そんな簡単に類推できるような作品だったら今まで残っているはずもなく、この読み手が自分からの類推でしか本を読めない人なのだろうな腑に落ちる。

 

もちろん体験と類推して本を読むことは全く問題がない。したいようにすれば良い。

 

僕の読みだと「人間失格」は普通に美味しかった。

何が美味しかったかというのはなかなか言語化し辛い。だって、言葉で表現できるように書物を読むという体感をしていない。本の感想文はそれを読んで動いた心の描写でしかない。

 

個人的には太宰さんはどこかの全集に載っていた「メリィクリスマス」が一番好き。

なんだかからっとしている。いや、じめっとしたのが嫌いな訳でもないが。

 

 

最後に、1Q84にまつわる少し真面目な話。

ネタバレすると満月さんに怒られるのでしないが、この世界(現実)にある暴力のことを考えた。

 

家庭内のネグレクトとか(性)暴力がかなり露骨に描写されているのだが、ここに法という国家の目が介入することがほんとうに良いことなのかという話。個人的にはどんどん介入すれば良いという立場だが、家族を情を取り除いて単なるシステムと捉えたとき、家族から切り離された子供を保護する受け皿って十分なのかって。成人女性も含めて、というか、一般社会において、他人の家族問題はあんまりじまじま見てはいけないというタブーがあるから、そのタブーを国家が観測するのはどうも違うような。

 

ここを解決する視点でもないけど、そもそも人間が独立した意志をもって合理的判断ができるという想定自体が無茶だったという話なような気がする。その為に無理矢理括られた単位が家族というのはありうる話。僕が育ってきた家庭では暴力はなかったが、なかなか色々空疎だった。満月さんとは空疎ではない家族を形成できるかもしれない(のろけ)。でなければ、今の自分が誰かと一緒に居る訳がない。

 

他人にしたら一発アウトなことでも、家族だったら罪に問われないというのは、散髪屋さんが髪を切って傷害罪にならないとか、異性のお医者さんが身体をまさぐってもわいせつ罪にならないとかの次元と同列にみなされて良いものではないよな。専門的な技術を習得している訳でもない1つしかない実例なのに、家族というだけで法(社会)が監視しなくても良い対象になるというのもなかなか変な話。

 

これが自由だとは、どうあっても言えないよな。

まぁ僕は結婚したとしてもここには疑義を拭えないけど、不自由から来ている描写ではない。男は生来色んな人とまぐわいたいDNAを持っているらしいけど、そういう意味では僕は不全。下の目論見に支配されるほど上が弱くない。

 

1Q84で、自分の肉体はDNAの乗り物でしかないというフレーズがあった。

たしかに、肉の器に対してそういう感覚は否めない。乖離している感じではなく単にそういうものなのだろうなというだけだが。僕のこの肉体と脳の器に社会に倣った人がきちんと乗ったら、なかなか良い生活をしていたと思う。文章を書く暇もなさげ。ただ、ほんとうに乗り越せるのは僕しか居ないと思う。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。