うさんくさい平等論

 

 

 

何か変な夢を見たような。あんまり悪い感じはなくただ意味が不明な。

 

 

パグ動画をちょこちょこ見ている。近くだとふごふご鳴っているのが共通項なのか。ただ、何万人とチャンネル登録されているお方より満月さんの実家で逢ったパグの方が可愛い。

 

 

ピンクの絨毯を観測してからの出勤。昨日より増えている。変化に気付くのは別に注目している部分だけではなく、きちんと世界を眺めているとどうでも良い変化が目に留まる。職場のトイレの芳香ファンが、昨日位置がずれていて今日は直っていたとか。別に物事が収まるべきところに収まらないと気持ちも収まらないみたいな神経質でもない。ただ、あれ、前と変わっているなというのが見えるだけ。意図なき視野。

 

有能な新人さんが花粉症で絞り出すように声を出しているのが痛々しい。せき込みがながらなんとか声を発する。花粉症って喉に来ることもあるのか。休んでも治るようなものではないし特に声もかけない。上司の立場であれば当然かけて様子を探る。仕事ができない状態なら早退とか。そうして、何故か同じような症状がうつってしまう。これが共感というものか。僕の場合は酒焼けないし煙枯れに違いない。自律神経の塩梅で気道が狭まって咳が出る朝方と近そう。この症状もあんまりなくなった。

 

普段はあんまり喉を使わないように発話している。もう少し音量増やして話さないなという日常。

 

 

仕事と言えば気になること。送別会の予定は明日と聞いたのだが、年下上司から何の連携も無かった。もしかして自然消滅で流れたのか。だとしたら割とがっかり。僕の仕事帰りに集合すれば僕が準備することは全くないし、前もって連携されていたとしても心の準備(うきうき)くらいしかないのだが、どちらにせよ一言は欲しかったかもしれない。それで何か変わることはないし、流れたら流れたでいつもの楽しい夜が起こるだけ。

 

明日日記を書かれていたらそういうこと。

いや、飲み会終わったあとに書けるという世界線もあるか。

 

 

 

考えているような、いないような不思議なバイオリズム。

 

凄く不思議だなと思った満月さんと、彼女が長く一緒に生活した人の話。一般的感覚で言えば全然不思議でもない気もするが、ほんとうにそこに自分の存在を置いているのかって。

 

具体的な歴史。彼が満月さんの実家に滞在している時に体調を崩して、病院に連れて行ってもらったとのこと。その時にお医者さんに彼の立ち位置を聞かれる。お母様は娘の「友人」と答えたらしい。それに対してフィアンセって言って欲しかったと漏らす。

 

僕が個人主義というか、個人は外から認証されるものではないという立場なのかは知らないけど、このエピソードって、私たちは夫婦ではない、パートナーですから奥さんとか呼ばないで下さいって言ってしまうくらいの滑稽さを感じる。誰に何と呼ばれようとどうでも良くないかとしかならない。

 

個人的に呼称としての彼氏彼女は嫌だから満月さんは恋人さんだが、他人から彼女って呼称されたとしても訂正する必要がない。要は関係の名付けが当人の語彙の範疇で選ばれているだけだから、言葉遣いだけ訂正させたところで特に意味が無い。

 

これはもともとの社会的アイデンティティである氏名が結構言い間違えられてきた個人的な歴史もあるのかも。名は体を表しているが、他人の認識と一致するとは限らないみたいな。

 

 

こういう意味で社会学って面白いと思う。

社会的アイデンティティの壊れやすさを学問している。

 

勢いに乗って、男女平等の話。

女性は虐げられてきているという世界観を信望している人と出逢って影響を受けた人の記事を見かけたのだが、控えめに言って実体験を誇大評価した偏見まみれだと思った。そんなことで実現するはずがない。

 

個人的な世界観だと別に男女が平等である必要もない。し、同性間でも個体差がある以上、平等であるみたいなフィクションではなく、固有であるという世界観にした方がきっと良い。これだったら無駄に大枠で女性はどうこうとか、昭和の男性があかんとかみたいな括りが起こらないし。

 

ほんとに平等が起こるとしたら機械的な補助によって個体間の差異が無くなることだろうと思う。分かり易いところで言えば、女体を媒介としなくても出産が可能になるとか、肉体のハンデを標準化するような装備が可能になるとか。これを延長していけば、能力の差異とかも平準されていくはずだが、ほんとにこんな平等の世界が良いのだろうか。

 

平等であるという世界観はあくまで国家が変に恣意的に扱いを変えないくらいなもので、社会的な云々をどうにかすることは、その社会を変えるよりそこからから外に移動した方が早いような。その自由は当然保障されているし。離婚も自由だし、居住区を変えるのも自由だから、別にそこに居座る必要もない。

 

そうそう、平等について深堀り思索。

国家が平等にできるのは機会がせいぜいだし、これを言ったら、環境の不平等はどうあっても否めないよなというのが、甲子園とかサッカーの全国大会とか。年中寒い北海道とか練習時間は相当限られるに違いないが、大会上は平等だから、劣悪な環境なのに頑張っていると観衆にはひいきされる、みたいな。この時点で世界を平等に捉えていない。

 

平等に練習する環境はないのに、機会と結果だけ平等というのはなかなか。平等に世界を見てない人が平等に扱われると思えるってなかなかねじれている。

 

だからでもないのだろうけど、スポーツ大会を全然見なくなった。

オリンピックとか。

 

 

もちろん、公平感というのはとても大事。公平感を調整するのはそれぞれの個別の社会を形成している上位者の手腕でしかなくて、個別の関係性では不公平性でバランスを取っているとこもあるだろうし、なんとも言えない。僕も別に満月さんに対して公平を求めていないし。公平とか利益とは別に一緒に居る意味があるという感じ。

 

 

なんだか最近は無茶苦茶なことを書いていると思う。

別に社会に対して逆張りを書いているつもりもない。ただ、それを当たり前の世界とするのは不思議だなぁというころが見えてきているだけで、個別の社会にはきちんとそういう感じを倣って生きている。今の世界全然変に偏見まみれな人が居ない。

 

知らなくても良いことが世界にはあるみたいな信仰は嘘っぱちだという世界観になれたから、もっと楽しめる。

 

色々書いたけども、結局は皆好きに生きたら良いし、相性が合う人だけと関係して良い世界になっていると思われます。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。