移動そこね

 

 

世界線を移動したが、現実化はしなかった一日。

 

 

雨。傘のてきとうな雨避け方法って傘のカタチが産まれてからあんまり進歩がないような。まぁ濡れるものは仕方ないし、雨の景色も好きだから問題ない。もしかしたら酔いどれで帰る世界線になるかもしれないからというのと雨避けも兼ねてビジネスバッグではなくてリュックにした。手提げだとセキュリティが甘いし、重心が偏る。酔っぱらいの重心が偏るのがやばいのは、むかーし酔っぱらいながら連れて行かれたラウンドワンのローラースケートで学習した。ただ立っていることができないから、あくせくして足を動かさないと転んでしまう(たぶん転ばなかった)。

 

リュックも普通に傘を差すと濡れるのが分かったのがこの前の散髪。後ろめに差してみる。濡れなていなかった。道く人の中ではもっと進歩している人が居て、満員電車のように前向きにかけるという方法もあるらしい。これも検討してみよう。個人的に雨だから制限されるみたいな考え方は好きではない。

 

ふと、だいたい転機の日には雨が降っていた気もしてきた。雨男なのかという気もするが、それを越えた天気はだいたい晴れている気もする。こんなのは統計でも経験則でもなく印象論。印象が強まっているとそれに反する記録はないないなっているだけ。

 

雨に濡れるピンクの絨毯もいろっぽい。本格的な雨だからかなりの花びらが本日流れていっただろうな。

 

 

お仕事。

 

普通にこなしながら、世界線のジャンプをいつしようかと長縄飛びのタイミングを計る気分。同期のスケジュールが問題だから、まずは同期に不意に話を投げようかなって。別に行ったところで辞めて行く身だし、特に他意はないと捉えられるはずだろうと思いながら、まぁまぁ忙しくて雨もあって常識的にはこのタイミングで当日の飲み会を提案するのはおかしくないかという常識人っぽいただの行動しない人が出てくる。ここだと基本的に何事も起こらないから、なんとなく安定な気がして、人格の安住の地ではありそう。

 

でも、僕が生きたい世界線はここではない。というのが現実化したのかどうかは知らないが、たまたまお手洗いが年下上司と被るタイミングが起きた。僕が来週無理だから、予定としては最終日の僕が最遅番の日にするかという後ろ倒し。僕が刹那的な人生論だからは知らないが、決まっていることが後ろになるのは気持ちが萎えてくる。することが確定であればなるべく早くすれば良いという質。満月さんが家族との邂逅を早々とセッティングしてくれたことは個人的にはちょうど良かった。どうせ逢うのであれば早ければ早いほど良い。

 

という感じでだったら今日はどうですかと提案してみる。これって前もってスケジュールを調整する一般常識社会人の人格ではありえないこと。別にプライベートで全く関係ない人達だし。年下上司はこの提案に対して少し考えていけなくもないということになった。近所に住んでいるということもある。あとは同期次第である。ここで同期が乗ってくれれば3人で宴会が起こったのだが、どうやら都合が悪かったらしい。

 

こんな雨の日で明日の都合も考えなくて良い時間帯で何をもって都合が悪いのかという理由はあんまり思いつかない。もちろん気分が乗らないという理由は立派で正当性があるが、居なくなる人に対して気分が乗らないということは、それほど私的に関わりたくないということかもしれないなって。

 

もちろん、これはあくまで悲観的な予測であって、かかりつけの病院の予約があるとか、諸々外せないということは考えられなくもない。ただ、ほんとうにそうだったら、この日だったらいけますって次の提案が起こるはず。

 

いや、僕も別に固執している訳でもない。年下上司がそもそも送別会をしたいとなったところに、同期が僕の動向を気にしているというのがあったというというところがあって、だったら場を作ろうかというところと、年下上司ももう一回僕と飲みたいのだろうなというところと。

 

あえて開催しなくてもどっちでも良いというのが本心だが、普通に過ごしているのも楽しい、そういう場があっても楽しいというどっちでも良いというのが選択だと思う。そういう意味で人と話すことにうずうずしているが、同期は僕がこの職場に居ることに一種の安定があっただけで、特に穿った話をしたいということはないのかもしれない。なんだか寂しいことだが、この淋しさは生きて居ればいくらでもありうること。

 

最期の日に開催されるのであればあと腐れがないから、いっぱい呑んで帰ろう。

時間を割いてくれそうな人は個人的に呼んでみたい。古参の先輩は飲ませたら楽しそうだが世界線を移動してくれるかどうかは分からない。

 

 

やれやれ。

 

何か有用性がないと人と接する時間がないというのは自明な世界観だが、僕は相手の時間をきちんと意識している人であれば結構関われるのではないかということになってきている。もちろん自分の時間のほうが大事なのは当たり前。相手の時間は色々ある中で、自分の時間に合わせないことにイラつかない人。別に約束に遅れるなんてことはしないが、時間って多義性があるから。

 

自分の時間を至上としつつ、相手の時間も慮れる人。

 

時間はお金ではない。交換価値がないから。ときは金なりという慣用句は、対価を時間換算しているだけであって、人の人生劇場において対価になる時間は労働していると永く(刹那に?)感じるが、そこまでシビアでもなさそうな。労働時間が機械的に動かされているという感覚がそもそもおかしいのか。

 

このへんが意志論の虚構で、選択は条件から絞ったものではなくて、ただ結果として在った世界線という捉え方が正しいような。自由意志があるという前提の世界観はどうも馴染めない。選択に傾向があるとすれば、それは傾向のベクトルでしかなくて自由とは呼べなくないかって。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。