酔いどれ

 

 

ごろごろする一日。情報を取り入れずに肉体が蓄積した疲労を取り除く時間の効用は凄い。お風呂上りでちらと見た自分の顔の調子がすこぶる良かった。顔の調子なのか身体の調子なのか微妙なところだが、隈の下の頬骨の頂点辺りがざらざらしている時は不調気味な気がする。本日はつるつる。

 

自分の調子って外から測るものではない。微妙な疑義が内部から起こっているがとりあえずスルー。

 

あと、お風呂読書の情報もすんなり入って来る。脳を活性化させることより脳のスペースを空けることが大事。スペースが空けられるということは、既存の情報も整理されているということだし。簿記論の数字が並ぶのはほんと苦手だったはずなのだが、馴れて来た。ちなみに計算はいちいちせずに眺めているだけ。意識的に読まないように読んだ方が浸透するのではという感じ。どういう現象化は知らない。

 

 

さておき。

 

朝ごはん用に昨日蕎麦を買ってきていた。予定に合わせない舌の気まぐれに合わせて朝ごはんはコンビニのカップカレーうどんとトロわさび巻き。ついでにキャラメルラテと雪見大福生プリン味も購入。お昼ご飯はベビーリーフのサラダ蕎麦と卵かけご飯。お酒を良く飲んだ後に炭水化物がするする入るのは求めているからということなのだろう。普段の酒量だとそんなに欲さない。

 

ご飯と言えば、あと20記事分くらいでお引越し(数え方よ)だから、調味料とかドレッシングは買い足さないようにしないと。砂糖がもうないのだが、普段の料理に砂糖はほとんど使わない。塩がなくなるほうが問題。塩は引っ越しまで十分残っている。麺つゆっぽい味付けをしたい時に使うくらい。十分な糖分はお弁当後の缶コーヒーやらハニーラテやらキャラメルラテで取れているはず。甘味を加えたいなら養蜂場のはちみつで足りる。本日ベビーリーフ用に作ったドレッシングもはちみつでお酢の酸味を緩和した。他の素材としては、クレージーソルト、にんにくチューブ、コショウ、オリーブオイル、しょうゆ。

 

だいたいの人にとって、胃腸の満腹って幸福に分類されることなのだろうが、個人的には苦しさとか眠気がブレンドされてきて腹8分で良いなという感じ。身体の組成になるかどうかは定かではないから咀嚼しているいま感じている美味しさの方が大事、みたいな。

 

物事を時系列で書かないといけないという規範は、時間が直線であるという共同幻想というか集合的無意識によるもので、そう書いた方が読み手に分かり易いという意識がありそう。1Q84の天悟君もそういうこと語る。ただ、時間の形式が直線であるというのは相対性理論で覆されているし、人が時系列でしか物事を感得していないというのも変な話。

 

 

夕方。

 

満月さんが予定より早上がりで1時間ほど通話。このタイミングで重くなっていた腰を持ち上げてスーパーに買い物に出かける。もっとも近いスーパーは徒歩10分。お刺身の鮮度が良いが、よなよなエール(美味しいクラフトビール)がない。もう1つのスーパーはよなよなエールがある。ただ、距離は少し伸びる。しかし、ピンクの絨毯の様子を眺められるルートがある。この2つを合理的というものさしでは測れない。だって、1つの土俵で測れる指標としての効用がない。

 

ここを一緒くたに箱庭にする経済学はだいたいやばいが、この本来同じ土俵に上げるべくもないことを同じものとして括って判断するのが合理的という思考方法は結構浸透しているような気がする。

 

たぶんすべては時間で測られるみたいなことになっている。

1Q84で天悟君はハッシシ(ハシッシ?)で時間ワープみたいなことを体感するのだが、僕もお酒で良くやっていた。色々理由は考えられる。割と自分という存在について投げやりになっていたとか、お酒を介すると自己が現実化されるとか。ナチュラルな僕はこういうどうでも良いことばかり考えている奴だから、素面ではどうも場違い感がある。

 

酔っぱらっているから言っている(書いている)訳でもない。

ほんとは素面でもそういう風に生きられば良い。満月さんに対しては素面でもいけそうな感じになっている。

 

ここからさらに変な話になってくる。

 

人間関係において、かけがえのない人だから大事というものさしがある。自分にとっても相手にとっても欠けると損なわれるみたいな話。僕はここを全然信じていないというか、自然界で言うところの桜みたいだなと想う。共同幻想というか共同桃源郷みたい。

 

この話無茶苦茶デリケートだとは分かっているから、あんまり幻想を刺激しないように書かねば。

 

かけがえのないという概念って、自分がその他人を必要としているから関係しているということであって、相手そのものが対象として俎上にない。お互いそれで欠けたものを埋め合わせ合うという関係って、プラトンさんだっけ、が「饗宴」で書いていた人間が半身に分かたれているという神話っぽいところ由来っぽい。

 

今の恋愛市場で言っても古来の家父長制で言っても、半身は交換できる。こういう感情は脳のバグではなく由緒正しき人類の脳の必然なではないかって。安心とか安全を提供できれば良いというぶちゃけ論だと、パートナーは誰だって良い。だって、パートナー同士には血縁という生来の繋がりはないから。

 

別にこれが悪いという話ではない。そういうパートナー選びの自由があるのも現代ならでは。母親が父親を亡くした後に恋人さんを見つけて仲良く過ごしていたことに対してもなんとも思わない。僕を産んでくれた関係があったのだから一生未亡人で過ごして欲しいなんて母親の人生劇場を蔑ろにしている。

 

ちょっと脱線して、自由と言えば、今って誰がどんな考え方を呈示しても良い時代なのだろうなという感じがしている。とても良いこと。あんまりその人が見えない文章も蔓延っているのは僕のお好みの話。言語って凄く力を持っている。自己を既定してしまうほどに。言霊なり世界観なり。だからかつての為政者は思想(言語)統制して、柵の中の人に他のことを考えさせないようにしていた。いまや何を考えていても良いとなっているのは、民衆が政治に興味がないからだと思われたり。

 

その時代に哲学していた人はとても偉大。

 

そういえば、いまって地動説が定説だけど、地球が自転しているって体感できる人は居ないのに、みんな信じている。これって天動説よりは辻褄が合っているということでしかない。というか、もうこんなことどうでも良いという説もありつつ。天体の動きより自分の運行の方が切実。

 

 

戻ってきて。

僕はこういう補充としての人間関係がどうも嫌だったらしい。料理を提供してくれるお返しに生活費を稼いでくるとかはまだ分かりやすいが、僕の存在に安心して依存するみたいなところ。

 

その世界観に付き合っていた節もある。相手の世界観を読みながら関係していると、自分もそういう世界の住人なのだという気分になってくる。これも別に悪いことではないが、自由ではない。

 

というところから再構築したのが、相手は別に必需品ではないという関係。

必需的な存在ではないからこそ、意志的に相手を選んでいるという人生劇場。相手が自分のことをどうこうしてくれるのではなく、ただ一緒に居るのだなという感じの選択。僕はそもそも人を条件で判断していなかったし、満月さんが三日月になったらハッスルが起こるかもしれないが、ハッスルを条件として置いていない。

 

僕が僕のままで居てもずっと一緒に居られそうという意味で稀有だが、だからと言って、隕石が落ちてきて僕が突発的に退場したとしたら、次のパートナーと一緒に楽しんで欲しい。

 

自分が費やせるという意味の愛の概念は変。

かといって一言で表現できるものでもないが、フロムさんが言うところの技術だという説が正解に近そう。技術って一方通行ではなくシステムというか効果ありきの話だし。

 

 

お爺さんになっても満月さんと一緒に居る予感はある。ただ、これは僕にとってこの人がかけがえが無いからではない。というニュアンスは誰に通じるのだろう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。